二十歳のとき、何をしていたか?/DJ KOO 掃除もお使いもなんでも来い! ラグビー部で培ったド根性精神で、DJの座を掴み取った。
清掃のバイトも経験。 人生を変えた後輩からの電話。
’80年代も中盤になると、DJ仲間のdj hondaさんと一緒に「The JG’s」を結成し、ミックス制作の仕事を始めた。 「サビがもっとあればダンスフロアが盛り上がるとか、イントロが長ければミックスしやすいのに、というDJたちの要望を叶えるサンプルを作り始めました。『That’s Eurobeat Non-Stop Mix』という、業界初のノンストップミックスを作ったことも。それが軌道にのって、荻野目洋子さんや久保田利伸さんのミックスをしたり、早見優さんと一緒に音楽を作ったりしていました。でも、なかなか潤わなかったです。今と違ってDTM環境がないんで、稼いだお金は全部機材代に消えてしまう。借金がどんどん増えて、多いときは300万円くらい。でも全然怖くなかったです。いつか売れて返せばいいって根拠のない自信があって」 とはいえ、’90年代に入るとディスコブームにも翳りが見えてくる。店も低迷期に陥り、DJもどんどんクビになった。 「当時、仕事は月に1回か2回あればいいほう。結婚していたし、食べていくためにバイトを始めました。音楽制作で人前に出ていたから、人に見られないビルやパチンコ屋の清掃。やがてそっちがメインになり始めた頃、初めて不安になりました。音楽を辞めてこれで食べていかないといけないのかなって」 転機が訪れたのは、横浜ベイサイドクラブにいた後輩DJからの連絡だった。 「’92年の暮れに、当時ロンドンで流行っていたレイブをやるから、そこでDJをやりませんか? と誘いを受けたんです。それを企画したのが小室哲哉さん。のちにTRFになるダンサーが11人くらい集められて、僕はDJとして参加しました。だから僕、小室さんから声をかけられてないメンバーなんですよ(笑)」 参加にあたり、面談をかねて小室さんに挨拶に行った。現場仕事で両手は青タンだらけ。恥ずかしさに、袖で隠しながら対面したという。そこでビビッときた。 「存在にも音楽環境にも圧倒されて、この人についていきたい! と思いました。『明日も見学に来ていいですか?』と聞いたら『いいよ』と言われたので、押しかけ弟子みたいに毎日通いました。やがて小室さんがそばに付けてくれるようになって、そこからですね」 TRFの快進撃はご存じのとおり。二十歳から今に至るまで、根っからの素直さと、何事にも愚直に挑む勤勉さ、そして未知の世界に飛び込む好奇心が、DJ KOOさんを形作ってきた気がする。 「ラグビー部で頑張った3年間が、僕の今の人格を作ったと思いますね。なんでも真面目にやってみる。苦しくても、好きなことは真っすぐ頑張る。だって、やってみなくちゃわからないですから」