二十歳のとき、何をしていたか?/DJ KOO 掃除もお使いもなんでも来い! ラグビー部で培ったド根性精神で、DJの座を掴み取った。
新宿のディスコに通い詰め、 DJの見習いに。
DJ KOOさんのインスタを見ていると、「バラエティー収録DO DANCE!!」とか「出演 DO DANCE!!」とか、テンション爆アゲなワードが並ぶ。近年ではバラエティ番組でも笑いを取りまくっているDJ KOOさんだけれど、本業はDJ。音楽の世界に足を踏み入れたのは、まさに二十歳の頃だったという。 【取材メモ】DJ KOOさんの特徴的なマイクパフォーマンスは当時から? 「’80年直前のディスコは、タケノコブームがあって、ニュートラやローラーディスコといったキワモノ的な場所でした。それが、僕が遊びに行くようになった’80年を境に変わったんです。ヴィレッジ・ピープルやノーランズといったキャンディ・ポップや、YMOの「ライディーン」とかブロンディの「コール・ミー」が流れるようになって。不良からモデルさん、学生までが満員で踊る、ものすごい熱気でした。でもDJだけはDJブースという自分の仕事場を持って、お客さんをカッコよく盛り上げている。それを見て、僕もやりたいなって思ったんです」 小さい頃から音楽好き。最初に夢中になったのはジュリーこと沢田研二さんだ。 「ジュリーがいたザ・タイガースがローリング・ストーンズをカバーしていたのを知って、中学ではどっぷり洋楽にハマりました。同級生が新御三家や天地真理さんを聴くなか、ディープ・パープルやブラック・サバスを聴いてるのは僕くらい。ロック好きな友達とギターを始めて、ミュージシャンを目指しました」 高校でもギターは続けたし、文化祭で対バンもした。でもミュージシャンになる方法がわからない。限界を感じて、プロになる道を断念した。 日本体育大学の附属高校でラグビー部にいたけれど、スポーツ枠で進学できるほど強くもない。ひとまず専門学校に行くことにした。 「そこで進路を考えるし、勉強もするからって親に頼み込みました。選んだのは神田外語学院。英語が勉強したいわけじゃなかったんですよ。学校の廊下に進学先が張り出されるから、格好がつく名前がいいなと思って。字面がいいでしょ」 その頃には実家が千葉にあり、電車で神田まで通い、授業が終わると新宿へ。やがて夜の世界に魅せられ、1年で学校をフェイドアウト。そこからDJの見習いになったという。DJに見習い制度があるなんて。 「DJは徒弟制度みたいなもので、見習い、セカンド、チーフって序列があったんですよ。落語家さんに似てるかもしれないですね。どのDJも、今みたいにイベントであちこち行くんじゃなく、お店に付いていたんです。僕は新宿の東亜会館にあった『B&B』に入りました」 するとトントン拍子に出世し、半年しないうちに出番がもらえた。 秘訣は高校時代のラグビー経験にあったという。 「ゴリゴリの体育会系だったんで、高校では先輩の言うことも、目の前の不条理も、ガンガン突き進んできたんです。だからディスコでも先輩から言われたことはなんでもやりました。掃除して、ウエイターをして、選曲をメモして、頼まれたら即お使いに行く。だってあの頃の僕、どこの見習いより新宿でおいしいラーメンを素早く買ってくるのに長けてましたから。結局DJも言うことを聞いて真面目にやってないとダメなんです。おかげさまですぐお給料がもらえるようになりました。最初にもらったのが12万円。当時からするといい金額でしたよ」 ’80年代の夜の新宿はどこよりも派手だったのだそうだ。第1次サーフィンブームが訪れ、ハマトラが流行り、小説『なんとなく、クリスタル』がヒット。若者たちは街に出て、ディスコで踊り明かした。 「夜のディスコから音楽やファッションの流行が生まれていました。お客さんもうんと若くて、『二十歳過ぎてディスコ行くって遅いかなあ』って話が出るくらい。そうそう、当時まだ若手だったとんねるずが隣のショーパブに出ていて、貴さん(石橋貴明さん)がブースに入ってきたことも。『コーちゃん何やってるの!』とかいって勝手にレコードかけちゃうから、ダメだって~とかいって(笑)。同い年だし、よくふざけてましたねえ」