義理人情は日本人の特色...言語に表れる「思考の傾向」
相手に思いをめぐらす
外国語ならば、「のべる」とか「伝える」とか「表現する」といった語であらわすようなところに、日本語は、「におわす」「ほのめかす」「それとなくふれる」といった言葉を多く用いるのも、受け手につよい連想作用が具わっていることを見越して、あらかじめ表現を抑制して、表現が間接的にやわらかく相手に当るようにとの配慮によるものであろう。 『日本語の論理』
「私」をぼやかす心理
「われ考う、ゆえにわれあり」などと言ってのけられる言語文化は、「私」に照れたり、顔をそむけているような日本人には、よそよそしく縁遠いものに感じられる。 われわれの思想は「われ考う」という大地に根をおろしていない。何とはなしに「われわれ」が考えたり、「かれ」あるいは「かれら」が考えたらしいことに立脚している。 それが客観的と言えるかどうか、などと問うまでもなく、しっかりした個性のないところに客観性の生じるわけもないのである。 『日本語の感覚』
独白、詠嘆で思いを投げ出す
対話によって思考を展開するのではなくて、独白、あるいは詠嘆によって、最終的な形の思考を、投げ出すように表現するのが日本的発想である。 『日本語の論理』
小イキな表現はお手のもの
(日本人の発想は)アフォリズム的表現には適しているが、構造の強固な思考を展開させて行く伸展性に欠ける。また思考のユニットとユニットを結合させる粘着性にも乏しい。 大思想は生れにくいが、小イキな表現は発達する。煉瓦は積み上げれば、いくらでも大建築をつくることができるが、箱庭にころがっている小石を集めても大きな建造物はつくることはできない。 『日本語の論理』
繊細さゆえの怖さもある
日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否の姿勢をとりやすい。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細さをもっていることもあって、自分の殻にとじこもって内攻する。 発散しない表現のエネルギーは鬱積して「腹ふくるるわざ」になるが、いよいよもって抑えられなくなると、爆発するのである。 『日本語の論理』