「私にとってすごく美しいプログラム」…「ショパン晩年の作品だけを弾く演奏会」に挑む女性ピアニストがそう語る理由
悲しみが明るく透明になる、晩年のマズルカ
今回のプログラムには、作品56と59のマズルカも入っています。どちらも「三つのマズルカ」という作品名で、晩年のマズルカとして有名な曲です。 『ショパンの名曲』でも触れましたが、独特な世界。短めの曲でもスケールが大きく、音を自由に操っている。しかも詩的。その詩も、例えば、ショパンの中で何か詩的なインスピレーションがひらめいたとします。でも、先の流れや終わり方はまだその時点では頭に浮かんでいなくって、自由に表現を展開していく。 最初から設計図を引いておくのではなく、一つの音からその次の音、またその次の音というように、自然に次の音が出てきている。詩人の1つの言葉が次の言葉を呼ぶような感じで、音が次の音を呼んでくる。そのようにして、音そのものが、次のフレーズになっていく。 で、なぜかこのような終わり方になったのかと自分でも驚いている。そんな奇跡のような世界です。 悲しい曲ではありますが、悲しみがどこかの時点で明るく透明になっていく。軽い、うれしいという明るさではなく、悲しみそのものが明るく、透明になる。自分自身を超えていくといいますか。その意味で、作品56も作品59も超越的な作品だと思います。
「幻想ポロネーズ」は特別な作品
プログラムの最後に『幻想ポロネーズ』という大曲が登場します。これも本で詳しく書きましたが特別な作品です。そもそも『幻想ポロネーズ』というタイトルがおかしいのではないかという話もある。これは日本語の問題なのですが、もともとの曲名は『ポロネーズ・ファンタジー』、つまり「ファンタジー」なのです。だから最近だと、『ポロネーズ幻想曲』と訳す人も増えています。 ただ、基本はたしかに「ファンタジー」ですが、ジャンルとして「ポロネーズ」ではなくて、「ファンタジー」なのかというと、微妙です。 これは個人的な意見ですが、例えば「ファンタジア・ポロネーズ」と、ファンタジーとポロネーズを入れ替えても別におかしくなかったのに、フランス語でも「Polonaise-fantaisie」と、やっぱりポロネーズという言葉が最初に置かれているんですね。このことには、やはり意味があると思います。 つまりショパンがポロネーズだということを強調したかったのだと思うのです。全体としてはたしかにファンタジーですけれど、ポロネーズの形式と精神を失ってはならないという。 そして、ここで言うショパンにおけるポロネーズの精神を象徴する言葉が「maestoso(マエストーソ:荘厳に)」。この曲にもmaestosoという指示があります。そこにはポーランド的な誇り、あるいは叙事詩的な内容が盛り込まれている。ショパンにとって、ポロネーズとは、そういうスケールの大きいジャンルだったのではないでしょうか。 だからポロネーズという言葉がなかったら、解釈がちょっと違ってくると思うんです。楽譜の読み方も、もっと抽象的な読み方になってしまうかも知れません。ポロネーズという言葉があるおかげで、作品の性格が明瞭になっているんですね。 晩年には「あの世」と「この世」との境界を乗り越えていくような作品が多いですが、『幻想ポロネーズ』は、ショパンの英雄的な面を表した作品です。ショパンといえば詩的というイメージが強いですが、その一方ではヒロイックな性格の人でもありました。ですから音楽にも厳しさがある。 この作品のように、詩的なものと英雄的なもの両方をバランスよく表現している作品はそうそうない。そういった意味でも特別な作品。個人的にも大好きです。だから、プログラムの最後に置きました。 もう一つは、ロシアン・スクールにとってとても大事な作品だということです。そしてそれは、ゲンリフ・ネイガウスの演奏のおかげです。まるでショパンが弾いているみたいな、ネイガウスと『幻想ポロネーズ』とが一体となった、まさに理想的な演奏です。 それがあまりにもすごすぎたので、あの偉大なソフロニスキーも『幻想ポロネーズ』を弾いていない。嫌いなわけではないんです。大好きなのに弾いていないのは、ネイガウスの演奏を超えられないから。 この『幻想ポロネーズ』は、ポロネーズの最高傑作であるだけではなく、ポロネーズ以外を含めても最高傑作です。ショパンの作品の一つの集大成ですね。