【MotoGPコラム】拝啓、中上貴晶様。日本のエースとして駆け抜けた世界選手権……その初期エピソード&番号の秘密とは
第12戦アラゴンGPの木曜日、MotoGPクラスにフル参戦する唯一の日本人選手、中上貴晶が2025年からHRCの開発ライダーに就任するという発表があった。 MotoGPライダー中上貴晶が教える「バイク乗り」に効く自宅トレーニング 今シーズンで契約の節目を迎える中上の去就に関しては、以前から噂レベルの情報がなにかと飛び交っていた。今回の発表はそれらの噂とも符合する内容で、メディアやファンの間でもとくに大きな驚きはなく、「やはり噂は本当だったか」「ついに発表される日が来たか」という冷静な受け止め方が大勢を占めていたようだ。 ただ、2018年から最高峰クラスに参戦して今年で7年目になる中上は、とくに最近レースを観戦し始めたファンにとって「長い間ずっとMotoGPを走っていた選手」という印象もあるようで、ひとつの大きな節目と受け止められてもいるようだ。たしかに、7年という時間があれば、中学一年生だった少年少女が20歳になるのだから、特に若いファンにとっては充分に長い期間といえるだろう。 中上よりも以前に、最高峰クラスにフル参戦していた日本人選手は青山博一だが、青山は2014年いっぱいでレーシングライダーの活動に区切りをつけている。2015年から2017年までの3年間、MotoGPクラスは日本人選手が不在の時代で、日本人ファンにとってはMoto2クラスが、いわばメインイベント的な存在だった。その時期に中上はIDEMITSU Honda Team AsiaからMoto2クラスに参戦していた。つまり、その頃から現在にいたるまでの10年間、中上は「日本のエース」としてずっと注目され続けてきたことになる。 そんな中上のグランプリフル参戦は、2008年に遡る。以下では、個人的な記憶なども交えながら、中上貴晶の現在に至るグランプリレース史をたどってみたい。 自分が「中上貴晶」というライダーの名前を初めて耳にしたのがいつだったのか、もはやはっきりとは憶えていない。ただ、全日本ロードレースで小山知良の持っていたGP125の最年少チャンピオン記録(17歳)を更新して14歳でチャンピオンになり、現在のルーキーズカップの前身にあたるMotoGPアカデミーに参加することが、当時は大きな話題になっていたので、おそらく2006年前後から彼の名前は聞き知っていたはずだ。2007年最終戦のバレンシアGPでは、MotoGPアカデミーの選手として125ccにワイルドカードで初参戦を果たしている。しっかりと話をしたのは、おそらくこのときが最初だったように思う。 このときの125ccには37選手がエントリーしているが、ワイルドカードでしかもグランプリ初参戦にもかかわらず、中上は全体の真ん中あたりに相当する予選20番手を獲得している。上々のパフォーマンス、といっていい。当時の取材メモを見てみると、土曜の予選を終えた中上は、こちらの質問に対して以下のように答えている。 「昨日今日と速いライダーと走って、いろいろと得るものがありました。それを明日のレースで試そうと思います。速いライダーは(コーナーの)進入から走り方を考えていて、速く走るべくして走ってるんだなと思いました。明日の目標はポイント獲得。あとはレースを楽しむだけです。印象に残ったのは、小山選手。進入がすごいとは聞いていたけど、ホントにすごかった。ブレーキングポイントも非常に深くて、とてもいい勉強になりました」 今読み返しても、15歳らしからぬ聡明なコメントに感心する。メモを残していたからその内容がこうやってわかるものの、実は会話自体はまったく記憶にない。当時の自分が15歳のアカデミー生を取材していたとは思わなかったが、やはり取材はしておくものだ。 翌年から中上は125ccクラスへフル参戦する。このとき、バイクナンバーは73番を採用した。この番号は、ホンダのスカラシップを獲得した青山博一が2004年の250ccクラス参戦時に使用して以降、グランプリへ挑戦する日本人ライダーが伝統的に使用していたものだ。青山博一の後は、弟の周平が2006年と07年にこの番号を使用し、2008年と09年は中上が受け継いだ。青山兄弟と中上はいずれも日本の名門レーシングチーム、ハルクプロの出身だが、73番を使うようになった事情は現会長の本田重樹氏によると、「日本人ライダーの鑑となる立派な成績を残した加藤大治郎のバイクナンバー(74)よりも、ひとつ前に行ける存在になれ、という願いを込めて提案した」のだと聞いたことがある。ライダーたち自身にとってこの番号の意味は「大治郎さんに少しでも近づくため」にひとつ手前の番号を選択した、ということのようだ。 この125cc時代の中上は目立った成績を残すことができず、2009年の最終戦バレンシアGP限りで、いったん戦いの舞台を日本へ戻すことになる。ちなみに、このバレンシアGPは、中上にとってハルクプロの先輩にあたる青山博一が250ccのチャンピオンを獲得したレースだ。青山のチャンピオン獲得の印象を、当時の中上はこんなふうに述べている。 「博一さんのチャンピオンは、(レース中にコースアウトしてオーバーランした際に)転ばなかったのもテクニックだと思うし、(マルコ)シモンチェッリ選手が転んだのも運だと思います。チャンピオンになるためには、そういったことすべてが必要になると思ったし、見ていて勉強にもなりました。スペインでも一緒に住ませてもらっていろいろと面倒を見てもらったので、日本人としてうれしいです」 翌2010年は全日本でST600クラス、2011年にはJ-GP2クラスに参戦した。この2011年には日本GPでItaltrans Racing Teamのレギュラーライダーの代役として参戦するが、その際に現在まで続くバイクナンバー30番を使用している。2012年にグランプリへ復帰して同チームからMoto2クラスのフル参戦を果たし、2014年にIDEMITSU Honda Team Asiaへ移籍。 この移籍後初レース、カタールGPはフロントロウ3番グリッドからスタート。最後まで激しい優勝争いを続け、0.040秒差の2番手でチェッカーフラッグを受けた。ところが、表彰式のセレモニーとその後の記者会見が終わった後に、失格処分が言い渡された。レース後の車両検査でエアフィルターが純正品でないことが判明し、それが技術規則に抵触していたためだ。もちろんライダーには過失がまったくない。この日の夜中、ルサイル・インターナショナル・サーキットのプレスルームで、疲労と情けなさで腰がぐにゃぐにゃに砕ける思いがしたことは、いまも鮮明に覚えている。 その後、チームと中上は長く続く苦戦を強いられる。ようやく表彰台に登壇したのは、2015年秋のサンマリノGP。その翌年の2016年オランダGPで、クラス初優勝を果たす。2017年のイギリスGPでも2回目の優勝を達成し、2018年に最高峰クラスのMotoGPへ昇格した。 その後の中上の活動は、多くの人がご存じだろう。 新型コロナウイルスに翻弄された2020年は無観客でレースが行われ、2021年も取材陣はプレスルームからパドックへ出ることが許されず、選手との質疑応答はすべてオンライン会議システムを経由しなければならなかった。その規制が緩やかになり、チームのホスピタリティ等で対面取材が解禁されたのは、この年の最終戦バレンシアGPだった。 実はこのとき、パドック取材が解禁になったバレンシアGPではじめてチームのホスピタリティを訪れて、対面で取材した相手が中上だった。30歳を目前に控えていた中上に、将来の活動について訊ねると、「35歳以降は現役で活動していないと思う」「SBKや全日本へのスイッチも現状では考えていない」と話した。 今シーズンの開幕前、マレーシア・セパンのプレシーズンテストでロングインタビューを実施した際にも、その言葉に変化はなかった。2024年のホンダ陣営は昨年以上に苦戦と低迷を強いられており、おそらくそのような結論になるのだろうと思っていたとおりの発表がアラゴンGPの木曜に行なわれた際には、特に驚きを感じることもなかったが、それはおそらく多くのレースファン諸兄姉と同様だろうと思う。 中上のフル参戦は今年かぎりでひと区切り、とはいっても、レース活動がこれで完全に終わりになるわけではない。おそらく他陣営のテストライダー同様に、ワイルドカード参戦の機会は今後もあるだろう。第12戦での中上は今シーズンの自己ベストリザルトとなる11位という結果を得たが、ひとまずレギュラーライダーから一線を画すことがはっきりした以上、ここから先の8戦を戦ってゆくモチベーションは、シーズン開幕当初よりもきっと鮮明なものになっているにちがいない。レースを観る側にとっても、それは同様だ。 シーズン後半戦、残る8回の週末はじっくりと腰を据えて見せてもらうことにしよう。
西村 章