「宇宙戦艦ヤマト」庵野監督で復活の報に触れて
一度「二度と姿を現すことはありません」と終わらせたものを、無理やり続けたのものだから話は右往左往し、特に「ヤマトIII」以降、ファンは離れていった。 この時期私は大学生だったが、自分の出た高校の文化祭でマンガ研究会の部誌を手に入れると、そこには「西崎義展を糾弾する!!」の文字と共に「宇宙戦艦カマトト」なるかなり強烈なパロディーマンガが載っていた。「愛の戦士たち」で人々の涙を絞ったヤマトは、最終的に高校生マニアが糾弾する対象となっていったのである。 ここで一度、ヤマトという作品の流れは終わった。 「愛の戦士たち」を頂点とする、「愛と戦争と特攻」のヤマトが成立するにあたって、もっとも大きな役割を果たしたのはプロデューサーの西崎義展(1934~2010)という人だろう。彼に関しては『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(牧村康正・山田哲久著、講談社、2015年)という評伝があり、途方もない人物であったことが描かれている。デタラメで因業で悪党で嘘つきで周囲に迷惑をかけ続け、にもかかわらず大衆が求めるものを的確に察知して提供する才覚を持ち、周囲に波紋を広げていく――私は、彼がヤマトと同時期に制作したテレビアニメ「宇宙空母ブルーノア」の制作に参加した、サイエンスライターの故・金子隆一さんから、ちょっとここには書けないぐらいの西崎氏のデタラメっぷりの話を聞いたことがある。が、西崎という人がいなければヤマトというコンテンツが成立しなかったことも、また確かなのだ。 ●愛と特攻をリンクしてはいけない 「愛と戦争と特攻」が人々の涙腺を絞る一般受けするテーマであることは間違いない。 1998年9月に「ディープ・インパクト」(ミミ・レダー監督)、同年12月に「アルマゲドン」(マイケル・ベイ監督)と、地球に星(ディープ・インパクトでは巨大彗星、アルマゲドンでは小惑星)が衝突するというパニック映画2本が立て続けに公開されたことがあった。これら、同テーマの映画2本は、そのクライマックスが実に2本とも「特攻と死」だったのにはびっくりした。 ディープ・インパクトでは万策尽きた主人公の乗る宇宙船が核爆弾を搭載したまま巨大彗星に特攻をかける。アルマゲドンでは主人公が、小惑星に仕掛けた爆弾の起爆スイッチを押すために小惑星の表面に残る。 涙腺を絞る特攻が好きなのは日本人だけではないのである。 その意味ではヤマトに「特攻」を持ち込んだ西崎プロデューサーはビジネス的に正しかった。 とはいえ、それはお話の中にとどめるべきものだ。 現実の宇宙戦艦ではない戦艦大和は、敗戦の年の1945年、沖縄戦に向けた天一号作戦に参加して出撃途中の4月7日、坊ノ岬沖で米国海軍機の空襲を受け、撃沈された。出撃にあたって乗組員は「特攻作戦である」とはっきりと命令されている。大和には3332人が乗り組んでいたが、生き残ったのは276人。残りは大和と運命を共にした。 この時大和を出撃させる意味は全くなかった。すでに戦艦に対する航空兵力の優勢が確定しており、大和がその巨大な46cm砲で、敵戦艦を撃破するような戦場は存在していなかった。沖縄で物資や戦闘員を降ろして陸上戦を行い、大和そのものは湾岸砲台として使用するという作戦だったが、そもそも船を動かす専門職の訓練を受けてきた乗組員を陸上戦に駆り出すという時点で、もうダメであろう。 では、どうすればよかったのか。 なにもしなければよかったのだ。大和を出撃させてもさせなくても、いずれ日本は負けたであろうから、敗戦後に大和を差し出して、代償として3000人以上の有為の人材を死なせることなく戦後の復興に回せばよかったのだ。 日本海軍はサンクコスト(埋没費用)の損切りが出来なかった。「役に立ちます」と主張して、莫大な国費を注ぎ込んで建造した戦艦大和が、敗色濃い状況下で出撃すらしないということに耐えられなかった。「やってみてダメだった」なら言い訳が立つが、「そもそもやらなかった」では申し訳が立たない。かくのごとき組織の論理で、3000人もの人材を海の藻くずとしたのである。 それ故か、人々の意識の中におけるアイコンとしての戦艦大和は、怨念を背負ったものとなった。