「宇宙戦艦ヤマト」庵野監督で復活の報に触れて
その他、ヤマトのファンの間でも話題になった、「途中でガミラス人の肌の色が変わる」とか「壊れても溶けても次週には再生する根性の第3艦橋」とか色々あるのだが、一度は熱狂しただけに「がっかりだなあ」という感覚とともに、私は「宇宙戦艦ヤマト」から離れたのだった。 だから私は、最初の映画も見に行っていない。というか今まで一度も見ていない。ただ、同じ頃に出た「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」のレコードは買って、何度も何度も聞いた。実際ヤマトの音楽は素晴らしかった。 映画版がヒットしたことで、翌1978年には、続編に相当する「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が制作され、8月にロードショー公開となった。私は「愛」に加えて「戦士」と来た時点で「フハッ」(©水木しげる)というブルーな気分になってしまってまたも見に行かなかった。 ラストが特攻による死と知り、さらに心が冷えた。 絵空事であっても特攻を美化しちゃいかんだろ、である。 しかも「愛の戦士たち」の特攻は、「ヤマトの映画はこれで終わり」というプロモーションと連動していた。映画制作発表時から企画・製作総指揮の西崎義展プロデューサーは「映画を続けるつもりはない。ヤマトの映画はこれで終わり」と発言していた。映画のラストには「ヤマトを愛して下さった皆さん……さようなら もう、二度と姿を現すことはありません」というキャプションが表示された。 これで映画は最後、しかも特攻による愛と死――なんというか「これで売り切り、オシマイ、閉店セールだよ!」的なプロモーションの結果「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」は前作以上の大ヒットを記録した。 熱に浮かされたように多くの人々が、映画館に行き、涙を流した。当時入部していた高校の合唱部の日誌に、後輩の女子生徒が「映画見てきました! 古代君(映画の最後で特攻に赴く主人公)、なんて偉い子なんでしょう!!」と書いていたのを思い出す。 それでもサントラのレコードは買った。相変わらず音楽は素晴らしかった。オルガンの重低音が迫力の「白色彗星(すいせい)」に度肝を抜かれたし、「アンドロメダ」や「デスラー襲撃」はその後長くお気に入りになった。他方でまるっきり軍歌「戦友」のパクリかいな、というメロディーラインの「英雄の丘」にはがっくりきたりもした。 ●そして混沌へ 「これで最後」で人々の涙と財布を絞ったヤマトは、映画公開の3カ月後、1978年10月からテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト2」としてあっさり復活する。ただし、「ヤマト2」は「愛の戦士たち」のテレビ版という位置付けで、その内容を26話のテレビ放送に膨らませたものだったので、この時点では「これで終わり」を撤回するものではなかった。 が、「ヤマト2」のラストは特攻による死ではなく、ヤマトは沈まず主要キャラクターが生き残る形に変更された。特攻による死を良しとしない監督の松本零士氏が「あくまで生き残り、再建の苦しみを描くべきだ」と主張した結果だったそうだが、もちろん「このビッグコンテンツをむざむざ終わらせてなるものか」というビジネス面での思惑も大きかったのであろう。 このあたりから宇宙戦艦ヤマトは、そもそも興味を失っていた私にとっては訳の分からない、しっちゃかめっちゃかな物語になっていく。 時系列で事実関係だけを書いていくと、1979年3月にテレビスペシャル「宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち」が放送。「宇宙戦艦ヤマト2」の続編だ。つまりこのタイミングで「二度と姿を現すことはありません」は反故(ほご)になった。 1980年8月に映画第3作「ヤマトよ永遠に」が公開。「新たなる旅立ち」の続編である。 1980年10月から翌81年3月にかけて「ヤマトよ永遠に」の続編としてテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマトIII」が放送。 1983年3月に「ヤマトIII」からつながるストーリーの映画第4作「宇宙戦艦ヤマト 完結編」が公開となる。テレビ連続アニメ、劇場映画、テレビスペシャルと、公開形態があちこちに飛ぶので大変分かりにくい。