「宇宙戦艦ヤマト」庵野監督で復活の報に触れて
2024年10月6日、庵野秀明監督率いるアニメ制作会社カラーは「ボイジャーホールディングス株式会社(代表取締役 西﨑彰司)様より、『宇宙戦艦ヤマト』をベースとした新作アニメ映像を製作する権利を付与されるとともに、株式会社東北新社様からは著作権の利用につき許諾も得ました」と発表した。「2025年からのプロダクション開始を目標に新作劇場作品を現在鋭意企画進行中です」という。 つまり、 数年後に「シン・ヤマト」(仮称)が見られるということだ。 庵野監督が1974年のテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」から大きな影響を受けていることは、よく知られており、自身の監督作にもヤマトからの引用と思えるシーケンスが多数存在する。 この件に関して、ネットの感想は期待にあふれている。庵野監督の「シン」シリーズはどれも面白いというブランドが確立しているのだ。ヤマト直撃世代の編集Y氏も、「初代ヤマトの1話から5話までが4K画質でYouTubeで無料公開されてまして、最初は今さらヤマトかと思いましたが、一度見始めたら止まりませんでした」と知らせてきた。 Y氏としては、「庵野監督のシン・ヤマトのネタで原稿を」というところなのだろう。が、すまぬ。実は私、宇宙戦艦ヤマトに関しては早期脱落組なのだ。 「宇宙戦艦ヤマト」が放送された1974年の秋は、まだ地方民放が整備途上だったので、地域によっては、番組が見られたり見られなかったりした。このため、以下、当時中学生の私が住んでいた東京近郊では、という限定した話になる。 日曜日19時30分からのテレビ番組は、今にして思えば大変豪華なものだった。まず日本テレビが「宇宙戦艦ヤマト」。フジテレビが「アルプスの少女ハイジ」。高畑勲監督が手がけ、宮崎駿、小田部羊一といった手練れが参加した、テレビアニメの名作中の名作だ。 そこにTBSが、小松左京、豊田有恒、田中光二とSF作家たちが企画に参加した「SFドラマ 猿の軍団」で割り込むという、今にして思えば目が眩(くら)むようなぜいたくさだった。 テレビ放送が子どもに巨大な影響力を持っていた時代である。月曜日朝の教室の話題は、大きくヤマト派とハイジ派に分かれ、そこに少数派の猿派が加わるという感じだった。調べると、ヤマトと猿の軍団が、1974年10月から2クール(半年)の放送。ハイジが1974年1月から12月まで4クール(1年)の放送なので、あの妙に熱っぽい月曜日朝の教室の日々は、1974年10月から12月までのたった3カ月だったのだな。 ●血湧き肉躍るストーリーと音楽 もちろん私はヤマト派だった。実際宇宙戦艦ヤマトはとても面白かった。異星人国家ガミラス帝国に侵略され、放射能汚染が進む地球。そこに14万8000光年離れた大マゼラン星雲のイスカンダル星から「放射能除去装置 コスモクリーナーDを受け取りに来い」というメッセージと、宇宙航行用の波動エンジンの設計資料が届く。地球は、第2次世界大戦で撃沈されて海底に沈む旧日本海軍の戦艦「大和」を擬装に使って建造していた宇宙戦艦ヤマトに波動エンジンを搭載し、宇宙への大航海に乗り出す。立ちはだかるは圧倒的な兵力を誇るガミラス軍――。 よくもまあ、これだけ血のたぎるシチュエーションを考え出したものだ。放送の最後に「地球滅亡まであと〇日」というテロップが出て、日数が毎週の放送毎に7日ずつ減っていくという、リアルタイムの時間の流れを意識した演出も斬新だった。宮川泰の手による音楽も、適度の感傷と闊達なモダンさが両立していて、とても良かった。 ヤマトは初放送時は視聴率も振るわなかったというのだが、あの時の中学の教室の雰囲気を思い出すに、とても信じられない。ハイジと放映日時がぶつかることが分かっていたので、対象視聴者をティーン層に絞ったということが影響しているのかもしれない。つまり中学生だった私たちは、つくった側が狙った通りに「魂を射抜かれた」のである。 その後、ヤマトは再放送でファンを増やし、3年後の1977年8月公開の映画版が爆発的なヒットとなる。 私はといえば、この3年の再放送の時期に、ヤマトから離れている。 きっかけは、再放送を見ているうちに――こういう言い方が正しいかどうかは自分でもなんとも判断が付かないのだが――ヤマトの物語に含まれる「良くない成分」に気が付いてしまったことだった。