61歳の妻に先立たれたことで「死」と向き合って…ロシュフーコー、三木清、夏目漱石。古今東西の賢人は死と生をどうとらえてきたのか
◆フーコー、三木清の遺した言葉から「死」を考察する 私が最初に思いつく、死についての鋭い考察は、17世紀フランスのモラリスト、フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコーの言葉だ。 大学生のころ、初級のフランス語のテキストに、英語のneither...nor...にあたるni...ni...の表現の例文を見つけて、強い感銘を受けたのを覚えている。 ーー太陽も死も凝視することはできない。 確かにその通り、私たちは死を考える時、どうしても明確に、知的に考えることができない。とりわけ自分の死については考えることができない。どうしても、核心を避けてしまう。 三木清が『人生論ノート』の中で語る「死は観念である」という言葉も、死はあくまでも他人の死であって、自身の体験ではなく、観念として哲学的に考えるしかないという意味だろう。 『死』という大部の哲学書を残した哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチは死を、「第三人称の死」「第二人称の死」「第一人称の死」の三つに分けて考えるが、「第一人称の死」すなわち自分の死は経験されることのない「未来形の死」であるため、哲学的思索の対象にならざるをえない。 死について考察するのにこのような日本語版で500ページを超す難解な哲学的思索を要したということは、死も太陽も凝視できないということの証左でもあるだろう。 エミール・ゾラも、短編小説『オリヴィエ・ベカイユの死』の中で同じようなことを言葉を替えて語っている。この小説は「ある土曜日の朝六時、僕は死んだ」という一文で始まり、死者が語り手という珍しい小説なのだが、語り手は、死について触れながらこう語る。 ーー隣同士で寝る夫と妻は、明かりが消えると、よく同じ恐怖に震えることがあるに違いない。それでいてどちらもそれについて話したりしない。死について話したりなど、普通はしないからだ。卑猥な言葉をわざわざ言わないのと同じように。死という言葉を口にすることさえ避けるほど、死は誰にも恐ろしいのだ。人は自分の性器を隠すように、それを隠すのである。(國分俊宏訳、光文社古典新訳文庫)
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