冷戦終結後のアジアと日本(8) 中国の権力構造と政治状況から日中関係を分析:国分良成・慶應義塾大名誉教授
日本のアジア認識、アジアとの関係性の変遷について、歴代のアジア政経学会理事長に振り返ってもらうインタビュー企画。第8回は国分良成・慶應義塾大学名誉教授に、2000年代の日中関係、自身の中国政治研究における視座、今後のアジア研究のあり方などについて語ってもらった。 (聞き手:小嶋華津子・慶應義塾大学教授)
2000年代の世界と日中関係
小嶋 華津子 先生は2005年から07年にアジア政経学会理事長でいらっしゃいました。当時の状況をどう見ておられましたか。 国分 良成 2001年に9.11同時多発テロがあって、国際秩序はテロへの対処という方向に進みました。当時、北朝鮮の核・ミサイル開発の問題がアジアで一番深刻なテーマで、03年からは中国を議長国とする6カ国協議が始まりました。北朝鮮に問題が集中していたのが、当時の一つの特徴だったと思います。 日中関係は小泉純一郎政権の時に靖国問題で悪化し、05年に歴史問題をめぐって各地で反日デモが発生するなど、関係が混乱していましたが、06年に第1次安倍晋三政権がスタートし、中国に対して厳しいと思われていた安倍首相の下で「戦略的互恵関係」という将来思考の新たな枠組みができて、だいぶ落ち着き始めました。たしか安倍首相の訪中訪韓の最中に北朝鮮の地下核実験があったように、対北朝鮮問題対応が日中関係の主要課題となって、この問題で中国もむしろ日米に近づこうとするようになり、歴史問題はようやく一段落しました。ちなみに、反日デモのコアの部分は動員で、江沢民派が主流派の胡錦濤政権を揺さぶるために起こしたと、現在では見られています。 小嶋 この時期、中国はまだ「責任ある大国」として世界の期待を集めていました。 国分 2008年の北京オリンピックとリーマンショックが、中国が自己主張を強めていく大きな転換点になりました。中国ナショナリズムの高まりと外交の強硬化への対処を迫られた日本は、中国との対話枠組みを重視しました。私は当時、外務省主管の新日中友好21世紀委員会の委員兼秘書長を務めていました。元経済同友会代表幹事の小林陽太郎氏が日本側座長で、中国側は元中国共産党中央党校常務副校長の鄭必堅氏が座長で、毎年2回ほど日中両国の各地で協議を行いました。この委員会では、両国を「戦略的互恵関係」へと導くべく議論を重ね、非常に苦労しました。今考えてみると、あの時代にはまだ日中関係をどうにかしようという動きがあったのだと思います。もちろん、安倍首相と胡錦濤国家主席の二人が、リーダーシップを発揮してくれたことも大きかったと思います。 小嶋 新日中友好21世紀委員会も、日中歴史共同研究も時代のたまものだと感じます。 国分 実際の運営には難しい点もありましたが、対話重視の雰囲気もあり、自由に動ける部分がありました。胡錦濤政権としても、日本との関係を改善しようとしていました。それが今は、日中の間に対話の窓口が減り、共同研究でも中国の研究者は機微な部分は何も話せなくなり、日本の研究者も拘束を恐れて中国に行かなくなりました。これは由々しき事態です。 これまであまり話してきませんでしたが、学術交流と言えば、現在、中国共産党政治局常務委員で中国人民政治協商会議主席、つまり党内序列第4位の王滬寧(おう・こねい)氏は復旦大学教授の時代におそらく5回ほど来日しています。ほとんどは私がホストでしたが、1992年10月には、日本学術振興会の招聘(しょうへい)で慶應義塾大学法学部の訪問教授として1カ月滞在しています。その間、私と一緒にアジア政経学会はじめ諸学会に参加して交流しました。30年前の話ですが大事な歴史の一コマです。それなのに、どこを見ても王滬寧が日本に頻繁に、しかも長く滞在したことは書かれていません。政治的にやや微妙な話なので、私もあまり話してきませんでしたが、こうした秘話も少しずつ話し始めても良いのではないかと考えています。