『光る君へ』政権の座に就いた道長はなぜか「10年間無官」の為時を<最上格の大国>越前守に…まさかの大抜擢に対して広まった逸話とは
現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部を中心としてさまざまな人物が登場しますが、『光る君へ』の時代考証を務める倉本一宏・国際日本文化研究センター名誉教授いわく「『源氏物語』がなければ道長の栄華もなかった」とのこと。倉本先生の著書『紫式部と藤原道長』をもとに紫式部と藤原道長の生涯を辿ります。 道長からいじめ抜かれた定子を清少納言は懸命に守ったが…紫式部が日記に<清少納言の悪口>を書き連ねた理由とは * * * * * * * ◆疫病と道隆・道兼の死 伊周に完全に先を越された道長であったが、その転機は突然に訪れた。 疫病が蔓延していた長徳元年(995)、関白藤原道隆が4月10日、そして関白を継いだ藤原道兼も5月8日に死去した後を承けて、5月11日に、一条天皇は権大納言(ごんだいなごん)に過ぎなかった道長に内覧宣旨(ないらんせんじ)を賜わった。 こうして道長は、いきなり政権の座に就いたのである。 道長の同母姉で一条生母(国母<こくも>)である詮子(せんし)の意向が強くはたらいたとされる。 道長は6月19日には右大臣に任じられ、太政官一上(だいじょうかんいちのかみ)(首班)となって、公卿議定(くぎょうぎじょう)を主宰した(翌年には左大臣に上っている)。 道長にはこれ以降、とてつもなく忙しく、また諸所に気を使わなければならない日々が待っていた。 当時の公卿構成で、道長は伊周・隆家兄弟を除けば最年少だったのである。 ただし、詮子も一条も、それに道長自身も、この時点では、あれほどの長期政権になるとは考えていなかったはずである。 道長自身は病弱であり、加えて長女の彰子(しょうし)は幼少(長徳元年では8歳)、嫡男の頼通はさらに幼少(同じく4歳)となると、道長がつぎの世代にまで政権を伝えられると考えた者もいなかったはずである。 結局は定子(ていし)の兄である伊周に政権を担当させることになるであろうと、一条も考えていたことであろう。
◆為時の越前守任官 長徳2年(996)正月25日におこなわれた、つまり道長が執筆(しゅひつ。除目<じもく>の上卿<しょうけい>)を務めた最初の除目において、為時はじつに10年ぶりに官を得た。 この年の除目は大間書(おおまがき)という任命者の名簿が残っていて、越前守(えちぜんのかみ)に「従四位上源朝臣国盛(くにもり)」、淡路守(あわじのかみ)に「従五位下藤原朝臣為時」という名が明記されている。 為時は、この年正月6日におこなわれた叙位で従五位下に叙爵されていたのであろう。 通常、受領(ずりょう)の任官は申文(もうしぶみ)を提出して、そのなかから選ばれるが、10年間も無官で五位に叙されたばかりの為時としては、下国(げこく)の淡路守くらいが適当だと判断したのであろうか。 ところが3日後の28日、国盛の越前守を停め、為時を越前守に任じるという措置が執られた。 『日本紀略)』は、「右大臣(道長)が内裏に参って、にわかに越前守国盛を停め、淡路守為時をこれに任じた」と記している。 これが信頼できる唯一の史料である。 『小右記(しょうゆうき)』の写本は正月後半は残っておらず、逸文は除目で伊周の円座(わろうだ)が取られていたことを記すのみ、『権記(ごんき)』はこの年は5月までの記事を欠いており、『御堂関白記(みどうかんぱくき)』はこの年はまだ本格的に記録されていない。
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