龍造寺の家臣ながら「天下は秀吉のものになる」と確信した鍋島直茂の先見力
難しい立場に立たされたとき、一か八かの決断を迫られたとき、 存亡をかけた局面に置かれたとき......、きらりと光る能力を発揮し、 見事に苦境を打開した戦国武将がいた。今回は、鍋島直茂をご紹介しよう。 【写真】作城本丸(亀丸城)跡碑。島津義久・義弘もこの地で生まれたという。
先物買いの名人だった鍋島直茂
作家の司馬遼太郎氏は、鍋島直茂を評して「先物買いの名人」と書いた。先物買いとは人やモノの将来性を見越して投資することだが、スマートに言うと「先見力」だ。直茂の場合、まさにその言葉がふさわしい。 直茂は幼いころからその器量の片鱗を現し、「世に有り難き御器量」と言われたが、それを見込んだのが主君・龍造寺隆信の母、慶誾尼だった。 我が子・隆信の右腕になるのは直茂しかいない、と見込んだ彼女は、なんと直茂の父・清房のもとにおもむき、「そなたは奥方に先立たれたままだが、性格も頭も良く健康でしっかり者のおなごがおります。後添えにお迎えなされませ」と勧めた。清房が「では一度会いましょう」と応じると、約束の当日、花嫁姿で慶誾尼がやって来たという。彼女はみずから清房に嫁ぎ、直茂を義理の息子としたのだ(『普聞集』『藩翰譜』)『肥陽軍記』)。 ということは、直茂は隆信の義理の弟になったわけで、これで直茂は運命共同体として、隆信とともに龍造寺家発展のために尽くすことが宿命づけられた。 そして彼は元亀元年(1570)の今山の戦いでは、侵攻して来た大友軍8万を5000の兵で迎え撃ち、夜襲によって大将の大友親貞を討ち取るという大勝利を収めるなど、隆信を強豪大名にするために大いに貢献することになる。慶誾尼の先見力が裏付けられたのだ。 そしてこの義理の母の先見力、将来を見通す眼力というものは、どうやら直茂にも影響を与え、受け継がれたらしい。彼は周囲の敵と戦いながらも諸方の情報を集め、常に先行きを予測して動いていた。 天正10年に本能寺の変が起こると、「天下は必ず羽柴秀吉のものとなる」と使者を派遣して誼を通じている(『藩翰譜』)。遠く九州の地から中央への外交活動を展開し、龍造寺家に有利となるよう努めていたのだ。 天正12年(1584)、沖田畷での合戦で隆信が島津軍に討ち取られてしまうと、直茂は隆信の子・政家の家宰として全権を委ねられたが、島津家に屈服した龍造寺家としては、その配下として働かざるを得ない。 島津軍の一員として大友家を攻める一方で、ひそかに秀吉にも連絡を取り続けていた彼は、2年後に秀吉が島津征伐を決定すると、たちまちそれに従い、島津家に反旗を翻した。翌年、島津家が秀吉に降伏すると、直茂は「お前が肥前国を差配せよ」という秀吉の命令で国政の実権を握っているが、これも、早い時期から秀吉の力量を評価していた先見力のおかげだろう。 そんな直茂は、慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、今度はさっそく徳川家康に接近した。2年後の関ケ原の戦いでは尾張方面の米を買い占めて献上し、家康が勝利すると、さっそく太刀・馬を贈って祝賀するなど、まったく抜け目が無い。そのおかげで鍋島家は家康から肥前の藩主とされる(直茂の子、勝茂)。 すべては直茂の先見力の賜物と言って良いのではないだろうか。
橋場日月(作家)