13歳で来日、鐘紡の筆頭株主になった「華僑の草分け」 呉錦堂(上)
日本の「華僑の草分け」といわれる呉錦堂(ご・きんどう)。明治維新の頃、13歳で来日し、雑貨の行商で蓄財し、神戸を拠点に貿易商に乗り出した呉は、人気の高く「国宝級」とも言われた鐘紡株の筆頭株主となり、「関西財閥の1人」と称されるまでになりました。後に孫文の革命運動を支援することになる呉錦堂が鐘紡の大株主になるまでを、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 3回連載「投資家の美学」呉錦堂編の1回目です。
ボロ船で神戸特産のマッチや雑貨を中国に輸出
作家の獅子文六が呉錦堂をモデルにした小説「バナナ」を読売新聞に連載したのは昭和34(1959)年のことである。当代切っての人気作家の文六さんが「週刊朝日」に相場小説「大番」を長期連載し完結して間もないころのことである。 「彼(呉錦堂)は遂に関西財閥の1人にのし上がり、セメントや紡績の大実業家になった。明治天皇から銀盃や藍綬褒章をもらったのも、日本の富豪並みであるが、東京の株成り金鈴久を対手として、鐘紡株の大決戦をやった時は、日本人の実業家に真似のできぬ大胆さと、ネバリを見せた。神戸に呉錦堂ありということが日本中に知れ渡った」 13歳で日本に来て、長崎、大阪で行商をやりながら資産をこしらえていった。当時の中国人は小金が貯まると、中華料理店や理髪店を始めるのが定番であったが、呉錦堂はあえて、この定跡を踏まなかった。神戸を拠点に日中間の貿易で身を立てようと決心する。ボロ船を1隻買うと、神戸特産のマッチや雑貨を中国へ輸出し、中国からは綿花、大豆、大豆油、菜種油などを輸入する。再び「バナナ」による。 「母国の生産地で日本人の嗜好を説明し、また、日本に帰ると、取引先に生産地の状況を知らせるという働きぶりだった。両国の相場の動きも早く察知できるので、投機的な商いも、人に先んじた。これが彼の成功の第一歩だった」
鐘紡株の引き受けを呉錦堂に依頼
明治27年から翌年にかけての日清戦争(1894-1895年)のころには大型船を持っていて投機的な買い付けを敢行し、資産を増殖させていった。やがて神戸市葺合(ふきあい)区篭池通りに邸宅を構えるが、隣に鐘紡神戸支店支配人の武藤山治(1867-1934)や大阪の名門糸問屋・八木商店の八木与三郎が住んでいた。武藤は後に鐘紡の社長から財界の大立物になっていくのはよく知られるところ。 「八木与三郎伝」には呉錦堂を真ん中にして武藤と八木が両脇に座る口絵が掲載されているが、3人の交遊は深まっていく。 明治34(1901)年10月、三井財閥の総帥、中上川彦次郎が48歳の若さで急逝すると、三井の後見人、井上馨は鐘紡株6万株をそっくり手放せと言い出した。市場で売れば大暴落は必至である。弱った武藤は呉錦堂に引き受けを依頼する。時価80円として480万円の巨額を要する。武藤は「三井が鐘紡株を手放すのは紡績業に未来がないためではありません。三井のお家の事情です」と懸命に説得する。 三井が鐘紡株を売却するのは、井上馨の差し金というより三井物産社長益田孝の指示ではなかったか、との説もある。工業重視の中上川が死去して、三井閥における実権が商業重視の益田孝に移ったからだ。いずれにしても「三井のお家の事情」で鐘紡株は呉錦堂に移る。