文人として名をはせた紫式部の父・藤原為時
984(永観2)年、近侍していた東宮が花山(かざん)天皇として即位すると、式部丞、六位蔵人に取り立てられた。式部丞は学問や人事を司る役職で、娘の紫式部の「式部」は、この時の為時の官職名に由来しているという。 ところが、986(寛和2)年に花山天皇が退位すると、それに伴い為時も職を失った。以後、10年間は無官で過ごすこととなる。 再び官職を得たのは、996(長徳2)年のこと。当初は淡路守に任じられたものの、不服とした為時は一条天皇に上申書を送って訴えた。この中に「苦学の寒夜は紅涙巾を盈し、除目の春の朝は蒼天眼にあり(寒い夜でも血の涙で袖を濡らすほど学問に励んだ。そんな努力も虚しく、除目の春の朝は悲しみで天を仰ぐこととなった)」という文句があり、一条天皇はいたく感動して、為時を淡路守に任命したことを悔やまれた。 その様子を見た藤原道長は、すでに源国盛(みなもとのくにもり)で決定していた越前守を為時に任じたという(『日本紀略』『今昔物語』『古事談』)。 一条天皇は為時の詩才に感銘を受ける一方、人事にまつわる心労からか、病に倒れたという。また、官職を交換させられた国盛も悲しみのあまり病に伏せてしまい、そのまま病死してしまったらしい。 為時が淡路国を不服としたのは、生産力の乏しい小国だから、という理由だったようだ。越前守を熱望したのは、異国人と交流のあった北陸地方で高麗人と詩のやり取りをしたかったから、という説がある。また、為時就任の前年に漂着していた宋国人との交渉役に一条天皇が抜擢したとする見方もある。 いずれにせよ、1011(寛弘8)年には越後守に任命され、為時は現地に赴任。ところが、理由は不明だが、任期を待たずに辞任した。1016(長和5)年には、三井寺(滋賀県大津市)で出家。出家の理由も明らかになっていない。その後の消息もほとんど不明だ。 為時は詩人として名をはせた人物としても知られ、『後拾遺和歌集』や『新古今和歌集』などに和歌が選ばれている。
小野 雅彦