明治以来の日本人のDNAと感性を刺激する〝唯一無二の年末大作〟「正体」と「レ・ミゼラブル」
アジア全体として見ると、まだ開化期の黎明(れいめい)すら見えない国々が数え切れないほどあった時代に、なんと「ジャーナリスト」を職業にしていた日本の男がいた。坂本龍馬の地、土佐藩郷士の息子として生まれた黒岩涙香である。 【写真】共感を呼ぶ共演者とのアンサンブル、特記すべきは山田孝之の名演だ 「正体」の一場面
「噫無情」の「惻隠の情」と「俠気」
翻訳家であり作家でもあった彼は、自ら創刊した日刊紙「萬朝報」に翻案小説「噫無情(ああ、むじょう)」を連載した。この作品に筆者が驚く理由は二つある。まずは、直訳すると「不幸な人々」となる原題にあえて感嘆詞を加え、作品の興趣を即座に、しかも大衆的にアピールできる邦題をつけたこと。そして、日本国民の琴線に触れ、1902年から1年間連載されただけにとどまらず、06年に前後編にわたる単行本まで出版されたほどの人気だったこと。 その人気は、原作のビクトルㆍユーゴーの「レ・ミゼラブル」の内容を思い浮かべてみると、実は極めて善良な人が非情な司法制度の不条理によって逃亡者として生きていくしかなくなった一方で、彼を追う法の執行者も正義の心の持ち主で結局は彼を助けるというヒューマンドラマとなっていて、何でもできるオールマイティーではなく哀れな普通の人を応援するという、日本人のDNAに刻印されている「惻隠(そくいん)の情」や、強い者の勢いを抑制し弱い者の立場を擁護する「俠気(きょうき)」と通じていることが要因であろう。
客席を一体にする貴重な映画体験ができる
「正体」は、こうした「噫無情」のセールスポイントに加え、1889年に上述の黒岩が発表した小説「無惨」を起点にアジア最大の推理文学市場を形成してきた「ミステリーのソムリエ」ともいえる日本国民の感性を刺激する映画だ。素晴らしい原作に特有の社会派の感性と人間愛あふれるタッチを生かし、類例のない極上のヒューマンドラマを作り出したのは、韓国ではNetflixで配信公開された「ヤクザと家族」で9.26(11月18日現在)という驚異のネチズン評点を記録し、今や「アジアの若い名匠」として位置づけられている藤井道人監督である。 「今回も動画配信で公開した方が、より生産的なのではないか」と質問する人がいるかもしれない。もちろん一理ある話だが、筆者はそれでも「NO」と言いたい。「正体」は、途中で電話に出たりメールしたり、気軽にトイレに行けたりするような作品よりもはるかに高い集中力を必要とし、それによって得られる満足度もはるかに大きいからだ。何よりも、見知らぬ人たちと一緒に主人公に感情移入し、感動で目頭が熱くなり胸がいっぱいになる、奇妙な一体感を伴う映画体験は実に大切で貴重なのだ。