坂本龍馬は「大事業のコーディネーター」だったと言える理由
日本人の深層心理にあって、ことあるごとに噴き出してくる「攘夷の精神」
黒船という武力に屈した形で幕府が開港を受け入れてしまったことをきっかけに、日本には尊皇攘夷の大合唱がわき起こりました。それが、明治維新への思想的エネルギーとなりました。 明治政府が成立すると、日本は近代化の道を邁進し、尊皇攘夷は、過去の言葉となったように見えます。しかし、それは日本人のなかから消え去ったわけではなく、実は、地下水脈のように流れ続け、ことあるごとに形を変えて噴き出してくると私は考えています。 二・二六事件は、尊皇精神の噴き出しの最たるものですし、大和魂という精神論で欧米と戦ってしまった太平洋戦争そのものが攘夷の精神の暴発であったと見ることもできます。 日米経済交渉などを見ても、どうも日本という国は、外圧に対する反応として、攘夷の精神が噴き出してしまうと思えるのです。これは、国際社会のなかで日本が生きていく上で、まことに厄介な問題です。 現代のわれわれも解消できずにいるこの攘夷の精神を、幕末にありながら完全に脱ぎ捨てていた人の一人が、坂本龍馬ではないかと私は思うのです。もちろん、龍馬も当時の青年志士同様に、攘夷いっぺんとうから出発しています。 こととしだいによっては、斬り捨てる覚悟で勝海舟を訪ね、かえって勝の開明的思想に目を見開かされ門弟になったと言われていますが、そうスッパリと自分の考えを転換できたわけではありません。 その後、長州藩は攘夷の実践として下関戦争を起こしていますが、このときの龍馬は乙女姉さんにあてた手紙に、ひと戦して夷敵を追い払わん、といったことを書いています。 しかし、龍馬は勝が神戸に開いた海軍塾の塾頭になり、そこから大きく変貌していきます。薩長連合を実現したのが32歳、大政奉還の報を聞いた33歳でその生涯を閉じています。あらためて龍馬の歴史上の活躍期間が非常に短いことに驚きますが、わずか数年の間に、恐るべきスピードで自己改革をなし遂げたのが龍馬なのです。 実際に龍馬が書いたものではないという説もありますが、龍馬の精神を物語る「英将秘訣」というものがあります。その一部を見てみましょう。 一、俸禄などいうは、鳥に与うる餌の如きもの也。天道あに無禄の人を生ぜん。予が心に叶わねば、やぶれたるわらじをすつる如くせよ。 一、義理などは夢にも思うことなかれ。身を縛らるるもの也。 一、恥という事を打ち捨てて、世の事は成るべし。 一、なるだけ命は惜しむべし。二度と取りかえしのならぬもの也。拙きということを露ばかりも思うなかれ。 一、礼儀などいうは、人を縛るの器也。 ここで龍馬は、日本人の美意識とも言える義理も恥も礼儀も、大きなことを成すには邪魔ものだと言い切っています。もちろん、義理とは封建制度に縛られること、恥は、思想的転向を恥じるなと言い換えるべきでしょうが、これほどの割り切りようは、日本人離れをしていると言わざるを得ません。