東大は「たかが東大、されど東大に他ならず」
同志社新島襄、東大の堕落に警鐘
第五章は、『赤門生活』における帝大生の生態、新島襄の同志社設立運動、そして私立七年制高校の誕生の三点セットを描くことから、尾原さんは「反・東大」の「転」のもう一つの姿に迫る。東大生の「点取主義」と「我利我利主義」、それと裏腹の「惰気」とが、東大にあるべき「真摯」や「篤学」の精神を奪っていく。実はこれより三十年以上前から東大の堕落に警鐘を乱打したのが、同志社創設者たる新島襄に他ならない。東大型の知識偏重と古臭い儒教道徳の併用ではなく、キリスト教振興を、時に「汎・東大」の、時に「反・東大」のロジックの中で展開していく。 キリスト教教育には限界があったが、大正デモクラシー期には、それを拡大拡散した教養主義が帝大生を捉える。いやそれ以前の旧制高校生活が彼等を「文化」の雰囲気の中にとけこませていく。 かくて「大正自由教育」の担い手たちが、より高度な教育機関をめざしたこともあって、四校の旧制私立七年制高校が誕生する、と尾原さんは説く。「反・東大」か否かは問題にならず、東大への進学過程にいわば「直・東大」として組みこまれたものの、東大側からはその「学力」や「入試」に疑いの目がむけられた。しかし硬軟両方の校風を育みつつ、旧制私立高校は「直・東大」ながらその個性を発揮し「汎・東大」の道を歩んでいった。それを説く尾原さんの目はやさしい。
東大の「詰め込み主義」に対する、京大の「自由討究」
第六章では、生まれながらにして東大追いこせの使命をもった、それこそ文字通りの「新・東大」精神に燃えた京都大学が描かれる。だが、章の初めの「仮面浪人」の話に象徴されるように、京大に入学しても翌年には東大に入学する学生のあり方に、世の評価は示されていた。確かに京大は創立後しばらくは、東大の「詰め込み主義」に対し、「自由討究」を奨励した。しかし、明治40年を機に、京大法科は東大型に接近していく。何故か。文官高等試験の合格実績が振わなかったからだ。ここにまた「試験主義」「学力主義」の永遠の課題の前に京大は屈することになる。格差の問題は下位にある方が常に問題にする。尾原さんは、東大と京大との対抗戦が「反・東大」の対抗意識に燃える京大側の態度により問題を生じた例を挙げる。両大学合同演説会において東大側の弱味につけこんで「変態的快感」を示す京大側の態度を描く尾原さんの筆はさえる。「反・東大」の思想は、時に「変態的快感」を生み出すのだと。