東大は「たかが東大、されど東大に他ならず」
私立法律学校による帝大特権の剥奪運動
論のたて方に「起・承・転・結」がある。これをこの本にあてはめるならば、一章を「起」そして二章を「承」とすると、三章から六章までは「転」の展開となる。三章では、私立法律学校による「帝大特権」の剥奪過程に焦点をあてる。明治の藩閥政府は、官吏といっても高等の行政官を高く遇し、人気のない司法官や格下の官吏には関心を払わなかった。私立法律学校はその間隙を突いて、学力その他の面で私立勢は決して帝大勢におとらずの議論を展開していく。やがて帝国議会での議論に移されるが、政府委員の議論は歯切れが悪いものの、直ちに特権剥奪とはならない。そして「大正政変」の時期に、ようやく特権廃止へ道筋がつけられる。明治の政治変動の時期に私立大学が芽を出し、大正の政治変動の時期に帝大の特権が廃止されるという状況を見るにつけ、「反・東大」の射程距離の長さが印象づけられる。その中でのうごめきとは、ある時は個性の発揮と多様性を指向し、ある時は特権の廃止と平等性を求める。結局大学には、尾原さんが指摘しているように、「学力とは何か」「試験とは何か」という、解のないパズルに陥っては、また御破算をくり返すことしかできぬのかもしれない。
一橋の商業学分野での東大凌駕
第四章では、尾原さんは「反・東大」の流れの中で、大学と学問という立ち場から敢然と立ち上がった、東京高等商業学校――一橋大学に言及する。それは「官」と「民」の文脈にはなく、「官」の中での「半・東大」的かつ「汎・東大」的主流である。そもそも商業教育は軽んじられた。そんな風潮の中で草創期からこの学校は慶応や一高よりは上という意識が強かった。商業科を帝国大学の一部として設立する話は、政府が長年の総合大学主義を諦めたため、それこそ大正半ばに単科大学として実現する。そして東大のそれを圧倒する。 しかし商業教育か学問探究かは、その後も商業大学や商業学科にまとわりつく解なき論争となった。慶応のように実業に特化すれば問題はない。しかし学問探求も視野に入れるならば、学生に何をもって研究をさせるのか。彷徨の結果、一橋大学は社会学部を設立し、多くの商業とは無関係の学問人材を育てた。それはあるいは、商業学外での「反・東大」の実現だったのかもしれない。