スマホに姉の写真「とっさに隠した」 きょうだい児の高校生が望む生きやすい社会
大橋さんの弁論原稿
もっと自分らしく生きるために 桑名高校 3年 大橋涼太 「お兄ちゃんとかお姉ちゃんいるの?」私はこう聞かれたとき、すごくドキッとします。必死でその場をごまかす言葉を考え、話を兄弟のことから遠ざけようとします。ただ、「お姉ちゃんがいるよ」とだけ言えばいいのかもしれませんが、「どんな人?」と聞かれることに、ためらいを感じるのです。なぜなら、私の姉は障がい者であるからです。 私の姉は最重度の知的障がいをもっています。彼女の知能は二歳のレベルに満たず、言葉を発することや簡単なジェスチャーはできますが、会話はできません。食事や入浴、排せつなど日常生活全般にわたって個別的なマンツーマンの援助が必要です。 皆さんは「きょうだい児」という言葉を知っていますか?聞き慣れない言葉かもしれませんが、「きょうだい児」とは、障がいを抱える兄弟姉妹をもつ子どものことを指す言葉です。きょうだい児には、障がい者本人でもなく、またその親でもないという立場だからこそ抱えている特有の悩みや問題があることも少なくありません。家族のケアをする負担があるという点で近年、ヤングケアラーとともに、きょうだい児の存在は認知されつつあります。しかし、きょうだい児の一人である私の実体験からすると、きょうだい児以前に障がい者への理解でさえも十分でないように感じます。通学時に電車に乗ると、高校生の話し声と笑い声が聞こえてきました。「お前障がい者だろ」という言葉が聞こえてきました。障がい者、という言葉が他の人をバカにするものとして使われていることに、怒りよりも先に驚きを感じました。私にとっては、自分の口から出るはずのない、信じられない言葉でした。しかし、別の場面で兄弟について聞かれた時、私はあの高校生の言葉を思い出し、「もし姉のことを話したら白い目で見られるかもしれない」と思うのです。 きょうだい児の多くは、障がい者がいる自分にとっての当たり前の家庭と、他の家庭との違いに違和感を覚え、兄弟のことを恥ずかしく思うようになることがあります。私はそうでした。友人と遊んでいた時のことです。帰る時間を母に連絡しようと思い、LINEを開くと、そこには先日、母に送った姉の写真がありました。友人に姉の写真を見られそうになった時、私はとっさにスタンプを二、三個送り、姉の写真が見えないようにしました。なぜ、そんなことをしたのか自分でも分かりませんでした。今思えば、姉を見せるのは恥ずかしいという気持ちが染み付いた心が、隠すという行為を反射的に選択したのだと思います。 きょうだい児が抱える悩みは、兄弟のことを他の人に話せないことだけではありません。きょうだい児にとって進路選択や就職、結婚といったライフイベントの際には、兄弟が理由で問題が生じることも多くあります。進路の話をすると、親から福祉の道を勧められた、という経験をしたことがあるきょうだい児も多いと思います。障がいを抱える人が身近にいたから福祉の道に進む、という動機は納得できるものであると思います。しかし、幼い頃から当たり前のように兄弟の世話をしていた背景を踏まえると、それは本当に自分らしい進路選択なのか?と疑問を感じます。きょうだい児の結婚に至っては、兄弟が障がい者だから、という理由だけで相手の親から結婚を反対された経験をもつきょうだい児もいます。この社会では、きょうだい児が自分らしく生きることはできないのでしょうか? 私はきょうだい児であることを美談や綺麗事にしないでほしいと思います。「障がい者を兄弟に持っていなければ、障がい者と関わる機会は少なかったはずだ」「障がいのある兄弟の世話をして、障がいのある兄弟のために生きるのが家族として美しい姿だ」こんな考えは、きょうだい児にとって悩みを言い出せないプレッシャーや、兄弟のことで悩むことへの罪悪感となります。私は障がい者本人の生き辛さは、きょうだい児にとっての生き辛さでもあると思います。逆に言えば、障がい者への理解で満ちる社会は、きっときょうだい児が思い切り、自分らしく生きることができる社会になるでしょう。私は、私の姉と一人の家族として共に生きていく、そう会話のできない姉と約束したいと思います。この約束がもっと簡単に果たすことができるような社会を、私は望みます。
高校生新聞社