三菱重工を辞め、「カオスでリストラ局面」だった妻の実家の会社へ クラフトビールで農業を切り開く若手社長
◆三菱で学んだこととは
――三菱重工ではどういった業務に携わったのですか。 学生時代はバックパッカーで、インドやタイ、マレーシア、中国など、世界中を旅しました。 経済発展していないエリアはインフラが不十分だったりして、日本の技術でそういった国の未来を作りたいという思いで三菱重工に入社しました。 三菱重工では、プロジェクトの考え方を学びました。 従業員が何万人もいる大企業でも、全員で1つの仕事をするわけではありません。 プロジェクトごとに営業や技術者などのスペシャリストがおり、社内外含めいろいろな立場で協力して仕事を進めるという仕組みを学べたのは大きかったと思います。 プロジェクトメンバーの中には、高校を卒業して10代からものづくりの第一線で活躍している人もいれば、大学院で博士号を取って研究一筋で頑張っている人もいて、本当に多様でした。
◆「リストラ局面」だった協同商事
――協同商事に入社した当初、社内の雰囲気はどんな感じでしたか? 「カオス」の一言ですね。 三菱重工と異なり、組織そのものや指揮系統、評価制度が整備されていないことに驚きました。 さらに、運送業は参入障壁が自由化され、競合が次々に入ってきて雲行きが怪しくなり、当時新しく協同商事が始めた地ビール市場はすでに右肩下がりになっていました。 課題が山積みで、ずっとリストラ局面にいる感じでした。 企画部長を経て、2003年に副社長になってからは、代表権も持って一気に責任が重くなりました。 改めて事業を見直したり、会計の仕組みを変えたりしました。 その後、2009年に社長に就任いたしました。 ――なぜ、ビール事業に注力していく判断をしたのでしょうか。 もともと協同商事は運送業がメインでしたが、「農作物を運ぶこと」を目的としていたわけではなく、あくまでも「農家をサポートする」ことが目的でした。 そんな中、いろいろな企業が運送業に参入し、我々が必ずしも運送業をやらなければいけない理由がなくなってきたのです。 わざわざレッドオーシャンの中で苦しみながら事業を続けることよりも、何か他のアプローチで農家さんをサポートできたらという想いで、徐々に事業の配分を変えていきました。