「大使館占拠事件」「悪の枢軸」…… アメリカ・イラン対立の歴史
2020年の年明け早々、アメリカ軍がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害したという衝撃的なニュースが飛び込んできました。8日には、革命防衛隊が報復としてイラクの米軍基地にミサイルを数十発発射したとの声明を発表。アメリカ、イラン両国の緊張は一段と高まっています。 ただ、両国間の関係はこれまでも緊張状態が続いてきました。それはどうしてなのでしょうか。41年前のイラン革命から順を追ってみてみましょう。
イラン革命、アメリカ大使館占拠事件、イラン=イラク戦争
1979年。イランには、50年以上続いていた「パフラヴィー朝」がありました。パフラヴィー朝は、イギリスの跡を継ぐ形となったアメリカ資本の助けを受けて石油資源を開発するなど、親米色が強い国でした。しかし、急速な西欧化などによる生活苦に若者をはじめとする民衆が反発。事態を収拾できなかった皇帝パフラヴィー2世は国外に逃げ出します。民衆の精神的支柱となったのが対米従属の皇帝政治を批判し、長年国外追放となっていたシーア派最高指導者ホメイニ師です。同年2月、ホメイニ師は亡命先だったフランスからイランに戻り、政権を掌握。この一連の出来事をイラン革命といいます。 このイラン革命の年に起きた事件が、アメリカ大使館占拠事件です。革命を支持する学生たちがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、大勢の館員を1年以上もの間、人質にしたという事件です。ソレイマニ司令官殺害後の1月4日、トランプ大統領はツイッターに、イランが米国国民や財産に攻撃を仕掛けた場合、反撃として「52か所を標的とする」と投稿しましたが、この数字は占拠事件で人質となった米国人の数だといいます。この占拠事件は、第85回(2013年)アカデミー賞作品賞などを受賞した映画「アルゴ」で描かれたことでも有名です。 このイラン革命を機に、アメリカとイランの関係は決定的に悪化しました。革命の翌年の1980年にはイランとアメリカは国交を断絶します。同じ年、イラクがイランに侵攻し、イラン=イラク戦争(~1988年)が始まりましたが、アメリカはイラクを支援しています。この時のイラクの大統領は、後にアメリカ軍によって拘束、処刑されるサダム=フセインでした。