池江・森保ジャパン・大坂――日本のスポーツに見る「疾走する現場」と「錆びつく中枢」
戦争の「現場と中枢」
日本ではドラマの舞台が特定の時期に集中している。 「戦国時代」と「明治維新」と「戦後復興」だ。 そういう時代には善悪を超えた大物たちの強いリーダーシップが発揮され、国家と社会が大きく動いた。しかし一段落するとたちまち、建前と形式と忖度が横行する時代、保身と面子(メンツ)ばかりの「空気リーダー」の時代がやってくる*3。日本文化にはそういうリズムがあるような気がする。 例えばこれまで、太平洋戦争の原因は、軍部特に関東軍の独走と、5・15事件、2・26事件などによる恐怖から、文官のコントロールが利かなくなったことにあると総括されてきた。 戦後政治の論壇をリードした丸山眞男も、昭和初期の日本ファシズムの特質を、家族的に一体という国家像にあるとし、東北寒村出身の若い軍人による自虐的軍事クーデターの試みによって促進されたとしている。たしかにそういう面はある。僕も基本的にこういった考え方によって「家社会論」を展開してきた*4。 しかし果たしてそれだけだろうか。 最近、これも現場より中枢に原因があったのではなかろうかと考えはじめた。むしろ中枢に、現場の独走を許さない確固たる指導力がなかったことが原因ではないか。丸山のシャープな論理には敬意を払うが、結局それが知的エリートの責任回避につながって、責任の曖昧な中枢システムが温存されたのではないか。 配管は水の流れが滞ることによって錆びつく。激流とまではいかずとも、滞りなき流れは必要だ。現在の政権はどうだろうか。どちらかといえば僕は長期政権擁護派であるが、長過ぎれば水は滞る。君側の奸が増えてくる。 池江璃花子と森保ジャパンと大坂なおみの今後にエールを送りたい。 東京オリンピック、そしてパラリンピックに出場する全ての国と地域の選手たちにもエールを送りたい。 野村萬斎の式典演出にもエールを送りたい。 しかし貴賓席に陣取るであろう要人たちの顔はあまり見たくない。 *1:THE PAGE:森友文書問題の根幹は何か…ズサンなデータ管理、情報肥大と日本の中枢劣化(2018年3月9日)参照 *2:THE PAGE:KYBの免震ダンパー不正と過剰管理社会日本(2018年10月23日)参照 *3:THE PAGE:2025年大阪万博はどうあるべきか──「文明への畏れ」から出発を(2018年12月9日)参照 *4:『「家」と「やど」――建築からの文化論』若山滋・朝日新聞社 参照