池江・森保ジャパン・大坂――日本のスポーツに見る「疾走する現場」と「錆びつく中枢」
節々の小権力の錆びつき
国会では、厚生労働省の基本統計の不正が問題となって、大西康之・前政策統括官が参考人として呼ばれている。 賃金などの統計は行政の基礎であり、雇用保険などの計算根拠となるのだから見逃すことはできない。政権への忖度で統計結果をアベノミクス評価につなげたのではという批判もある。旧態依然たる書面アンケートだけを頼りにし、IT技術の利用が進んでいないという指摘もある。官僚は、おかしいと気づいてはいても前例として継承していく。これもやはり個人の問題ではなく組織の問題であろう。 厚労省はかつて、大規模リゾートの素人運営で莫大な年金を失い、旧社会保険庁の年金データ消失事件まで起こしている。野党に政権がわたったのはこれらの事件が原因ではなかったか。自民長期政権による官僚の腐食を国民が感じとったのだ。厚労省はもともと国家より国民の目線に立つべき福祉的な役所であるが、それが杜撰(ずさん)なのは哀しい。 もちろん森友学園問題における財務省の決裁文書改ざんにも驚かされたが、このところ日本の官僚機構に対する国民の信頼は著しくそこなわれた。かつては、政治家はともかく官僚は優秀といわれた国であるのに。 つまり中枢の腐食といっても、大物政治家の高額贈収賄などが絡む巨悪ではなく、管理機能を果たすべき組織の節々が錆びついているのだ。大権力というより小権力の錆びつきである。
「お家の内部」を円滑に
中枢の錆びつきは「ものづくり」にもいえることで、三菱や東芝といった老舗基幹産業において、現場技術者は優秀でモラルも高いが、中枢が腐っていたという例が目立つ。KYBの免震装置の不正についての記事でも書いたが*2、老練の現場技術者にとって、過剰で形式的なデータ管理が、精神的な不適合を起こし、モラル障害を起こしているケースもある。 東日本大震災における福島第1原発事故でも、現場はよく踏みとどまり、自衛隊と消防庁はよく努力したが、経産省と東電本社と原子力安全委員会(現原子力規制委員会)の対応は、お話にならなかった。ムラ(原子力関係者のグループ)の内部の友人によれば、屋上屋を架するような委員会のあり方が逆に作用したという。 僕の周りは技術者ばかりで、飲み会でこうしたことがよく話題になる。高度成長を現場で支えた彼らは、昔の上司(工場長クラス)は、技術者に失敗覚悟でやらせて育てようとしたが、今は数字で管理しようとするからいかんという。現在の日本には、現場と中枢の断絶があり、そこにデータ主義とデジタル技術の問題が隠れているのではないか。つくるものに魂を込めようとする人間と、言葉と数字によって社会を管理しようとする人間の断絶だ。 どうも日本の中枢は、国内、企業内、省庁内、すなわち「お家の内部」が円滑に動くことに汲々として、本来の目的を忘れているように見える。そういう文化なのかもしれない。