J1→J3へ「ユースに参加したら雪の上」 五輪後に出場減も“直訴”…現役生活32年を貫けた理由【インタビュー】
長野、秋田の雪の環境に驚愕「トップチームは屋内で練習」も…
適応する力は、クラブを渡り歩くなかでも発揮された。2010年には93年のJ初年度から18シーズン所属した清水からJ1に昇格したヴァンフォーレ甲府に移籍。一度はJ2に降格したものの、J1に復帰した13年限りで戦力外となった。プレーを続けるためにトライアウトに参加。チームにこだわりはなかった。 「エージェントがいなかったので、自分でできるのは知り合いを頼ることか、トライアウトで見せるしかない。どこでも行くつもりでしたね。カテゴリーなんか言っている余裕ない。プレーすることが一番だったので。ただ、環境は違いましたね」 温暖な清水で長くプレーした。移籍した甲府も清水から近かった。もっとも、トライアウトの末に14年に加入したAC長野パルセイロ、16年のブラウブリッツ秋田は環境が違った。特に驚いたのは雪。もっとも、それにも対応してきた。 「長野が誘ってくれて移籍したけれど、環境は違った。雪もチラホラ降るし。でも、そんなこと言っても仕方ないし、やれることをやろうと。秋田も大変でしたよ。雪で。トップチームはさすがに屋内で練習するんですが、ユースの練習に参加したら雪の上。聞いたら、珍しいことじゃないんだと。驚きましたね」 施設の整ったJ1から恵まれないJ3へ。戸惑うことは少なくなかったはずだが、プレーできる楽しさが上回った。 「まあ、清水も最初は(専用の施設がなく)河川敷で練習したりしていましたから。環境がどうでも免疫はあったのかもしれません。僕はいいんですよ。どこに行っても知り合いがいたし、仲間がいたから。ただ、家族は何も知らない、知り合いが誰もいない街へ連れていかれて、大変だったと思います。だから、感謝しています」 さまざまな環境に適応しながら、50歳までJリーガーとしてプレーした。ポジションを変え、クラブを変えながらも、変わらなかったのは。「プレーを続けたい」と強い気持ちだった。 [プロフィール] 伊東輝悦(いとう・てるよし)/1974年8月31日生まれ、静岡県出身。静岡・東海大一高(現東海大翔洋高)―清水エスパルスーヴァンフォーレ甲府―長野パルセイロ―ブラウブリッツ秋田―アスルクラロ沼津。ボランチとして清水の黄金期を支え、U-23日本代表ではアトランタ五輪ブラジル戦で「マイアミの奇跡」を起こすゴールを決めた。Jリーグ開幕の93年から32年間Jリーグでプレーした唯一の選手。日本代表通算27試合。 [著者プロフィール] 荻島弘一(おぎしま・ひろかず)/1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者として五輪競技を担当。サッカーは日本リーグ時代からJリーグ発足、日本代表などを取材する。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰。20年に同新聞社を退社。
荻島弘一/ Hirokazu Ogishima