J1→J3へ「ユースに参加したら雪の上」 五輪後に出場減も“直訴”…現役生活32年を貫けた理由【インタビュー】
アルディレス監督との対話から成長、“柔軟性”が50歳までサッカー現役を導いた
「影響を受けた選手と言っても、うまい選手はいっぱいいました。指導者もそうだけど、一番はアルディレス監督ですかね。五輪から帰ってきて試合に出られない時期もあって、監督の部屋をノックしました。直訴? そうですかね。そこで外される可能性もあったけれど、色々な話をしてくれました」 アルディレス監督は元アルゼンチン代表で78年ワールドカップ(W杯)優勝時の主力。日本では清水のあとに横浜F・マリノス、東京ヴェルディ、FC町田ゼルビアでも監督を務め、影響を受けた選手は多い。170センチと小柄ながら技巧派でクレバーなMF、タイプが似ている伊東のことは気になっていたのかもしれない。 「何が足りないのか、どうしたらいいのか、そんな話をしました。自分からもアトランタ五輪の時のボランチでプレーしたいと言いました。もう1個前で使われていたから。言われたのは『ボールを持つ機会を増やしてほしい』。それまではゲームの中で消えている時間があったようだけど、それを意識して自分からゲームの流れに入ってプレーできるようになった。選手としてやっていくうえで大きなこと。監督から信頼され、使ってもらえるようになった。少し大人になれたのかもしれないです」 伊東が長くプレーできた1つの要因には「適応力」「柔軟性」がある。子どもの頃は大型FW、その後MFにポジションを下げ、トップ下やサイドでもプレー。さらにボランチとしてトップ選手になった。どこのポジションでも監督の要求に応え、しっかりとプレーする。 「こだわりは、そんなにないんですよ。(アトランタ五輪の)西野(朗)監督に言われて一列(ボランチに)下がって、それでプレーの幅が広がった。どのポジションやっても攻撃と守備があるから、多少違いはあるかもしれないけど、大きくは違わねえと思って。そう考えたら、ポジションなんかどこでもいいと」 抜群の適応力が、どんな場面でもポジションでもプレーできる「鉄人」を生んだ。とはいえ、日本代表のフィリップ・トルシエ監督には乗り気でない使われ方もした。それでも前向きに考えられるところが、伊東の強さだ。 「3バックの時の右のワイド(MF)で使われることがちょいちょいあって。本当に嫌で、めっちゃやりたくねえなと思ったけど、それよりも何よりも試合に出たかった。それに、できないことは要求してこないだろうと思ったし、だったらトライしてみようと。元々、性格的にも自己主張が強いほうじゃないし、適応することは得意だったのかもしれない。じゃなきゃ、50歳までできないですよ(笑)」