苦しすぎる人生に救いはないのか…根源的な苦悩に効く「哲学のヒント」
「生と死」という大問題
第8講では「自然」を取りあげる。自然は古代から現代にいたるまで私たちの身近にあったし、ありつづけている。古代の人々はそれを観察し分析するのではなく、共感し、畏怖すべきものとして、自然と一体になって生きた。そうした自然のとらえ方は、たとえば人間がこしらえあげた「法世」ではなく、「自然の世」こそが理想の社会であるという江戸時代の思想家・安藤昌益の主張のなかにも受け継がれている。またいわゆる自然、客観的な存在としての自然ではなく、「志向的」存在である人間との関係のなかで出会われる「風土」こそ私たちの生の「具体的地盤」であるという、日本の倫理学研究の礎を築いた和辻哲郎の「風土」理解のなかにも流れている。和辻から刺激を受け、独自の風土論を作りあげたオギュスタン・ベルクの思想にも言及することにしたい。 第9講では「美」を問題にする。明治の初めに西洋の美学が紹介されて以降、日本でも美をめぐって、あるいは芸術をめぐってさまざまな思索がなされた。フェノロサや岡倉天心、西田幾多郎などが主張したように、人を「高尚に導く」点に美や芸術の意義があるというのも一つの考え方であるが、はたしてそれだけが美や芸術が果たすべき役割なのか、むしろ既成の秩序が支配する世界ではなく別の次元を切り開いていく点にこそそのレゾンデトル(存在意義)があるのではないかというのも、当然問われてよい問題であろう。フェノロサや岡倉は、芸術家とは「世の先覚」であるべきであり、その点において職人や工人から本質的に区別されると考えた。それに対して柳宗悦は、無名の職工人が作る工芸や民芸のなかに、芸術家が作る芸術作品にはない独自の美──柳はそれを「無事の美」とも「尋常の美」とも表現した──があるのではないかということを主張した。この柳の美についての理解も見てみたい。 最後に第10講では、「生と死」について考える。「生と死」は私たちが生きていく上でもっとも根本的な、そして切実な問題だが、私たちがその問題を正面から論じることは少ない。「死」は悲しみや嘆きと結びつけて文学や宗教のなかでさまざまな形で問題にされてきたが、哲学のなかではほとんど論じられてこなかった。そのような状況のなかで田辺元は例外的に「死」をめぐって深い思索を展開した。普通に考えれば、死によって相手との関わりは終わる。しかし田辺は、死は決して関係の終結ではなく、そこに新たな関わりが生まれうることを、言いかえれば関わりの新たな地平が開かれうることを主張し、その関係を「実存協同」ということばで言い表した。田辺元の弟子であった武内義範もまた「生と死」という論文のなかで光とそれに対抗する闇という比喩を使いながら「死」の問題を巧みに論じた。この論文も取りあげる。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝