苦しすぎる人生に救いはないのか…根源的な苦悩に効く「哲学のヒント」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「他者」とは何か
本書『日本哲学入門』の第5講では、「自己と他者」について考える。私たちはほんとうに「自己」について知っているのであろうか。むしろ自己自身を見つめるのを避けて生きているのではないだろうか。あるいは、相手の表情の背後にある「他者」そのものを私たちは知っているだろうか。私たちはそもそも「他者そのもの」に迫りうるのであろうか。「他者」と言ったとき、それはすでにかなたに逃れ去ってしまっているのではないだろうか。そうした問題を、井筒俊彦や西谷啓治、森有正、坂部恵、西田幾多郎らの思索を手がかりに考察したい。 哲学では存在や人間は、往々にして意識・知・理性・論理(同一性)の側からとらえられることが多いが、むしろそこからあふれでるもの、それらによって覆い隠されるもの、具体的に言えば、感情や欲望、身体、無意識、環境、差異性といったものが大きな役割を果たしているのではないだろうか。そうした関心から第6講では、三木清の『哲学的人間学』や『構想力の論理』におけるパトス、身体、構想力をめぐる議論を取りあげる。さらに戦後に目を転じ、市川浩の身体論や中村雄二郎の共通感覚論、湯浅泰雄の東洋的身体論の現代的意義について考えてみたい。 日本の哲学の歴史のなかで京都学派が果たした役割は大きい。その思想上の一つの特色として、彼らの多くが「無」について語ったことが挙げられるが、そこでは現実の社会や国家、歴史についてもさかんに論じられた。その議論をリードしたのは、三木清や戸坂潤ら、西田や田辺から教えを受けた若い研究者たちであった。彼らは観念的な思索に傾きがちであった西田や田辺の哲学を批判した。その批判を承けて西田や田辺もまた現実の社会のなかにあるさまざまな問題について論じた。第7講ではとくに田辺元の「種の論理」の特徴、意義、問題点について考察を加えるとともに、西谷啓治や高山岩男、下村寅太郎らが参加した「世界史的立場と日本」と「近代の超克」をめぐる座談会が当時果たした役割、およびそれがいまも私たちに問いかける問題について考えてみたい。