「東大は最高の花嫁学校」「大型ホステスを育てる」トンデモ暴論がまかり通った昭和アカデミアの憂鬱
「家庭に入る」ことが社会への還元につながらないという考えも乱暴だが、そもそも当時の東大の女性の多くは就職差別などを通して彼女たちを家庭に押し込めようとする社会の力になんとかして抗おうと努力していたわけだから、田辺の指摘は的外れであった。 三教授とも言いたい放題の鼎談であったが、男性教授の特権を持つ自らの言葉そのものが、既存の激しい差別を強化することで、女性学生を一層苦しめることになるという意識はまったくなかったようである。 ● 「東大生論の権威」が主張した 東大は最高級の花嫁学校となるべき 当時、日本のような男性中心社会の大学において、田辺のような考えは決して例外的ではなく、むしろあたりまえのものとされていた。これらの発言が問題視されたという記録はないし、同調する声はキャンパスの教員以外の男性たちからも聞かれた。 たとえば文学部の事務官だった尾崎盛光は、大学が花嫁学校であることはやむを得ないとし、むしろ東大は最高級の花嫁学校となるべきだと主張していた。 尾崎はもともと東大文学部卒で、文学部教員の日高六郎の紹介で40歳近くになって文学部に就職した異色の事務官だった。文学部事務長を長く務め、その間、東大生の就職や学生気質などについて多くの著作を残した「東大生論の権威」でもあった。
その尾崎によれば、東大の女性学生をはじめ、男女共学になった大学の女性学生は「新制度の連れ子」に過ぎなかった。つまり、戦後10年を過ぎても、東大は「建物、設備も、教科内容も、先生の心がまえも、ほとんどすべて男性専用の大学であった当時のままといっても云いすぎではない」状態が続いており、女性たちがこの「男性専用」の大学と社会の中核で活躍する余地はないのだった(注1)。 そこで尾崎は1958年に『婦人公論』(12月号)誌上で「東大花嫁学校論」を発表し、「男女共学の大学は、よろしく高等花嫁学校としたらいかがか」と述べ、なかでも東大は「本邦最高の花嫁学校であってもいいのではないでしょうか」と提案した。 注1 尾崎盛光「東大花嫁学校論」『婦人公論』1958年12月号、138~141頁 ● 大使や公使のホステス妻には 東大卒女性がふさわしい 尾崎は、東大のような教育機関では「今までの花嫁学校では養成できなかった大型ホステス、社会的な発言と活動のできる主婦が男女共学の大学によって育てられる」はずだ、と言う。 たとえば東大卒の男性は将来、大使や公使として「国連で活躍」するから、東大卒の女性は「ホステスとしてのかたわらユネスコの嘱託となる、などというのもごく自然なイメージ」であるとし、あるいは研究者と結婚して夫の研究を手伝うとか、「翻訳をしながら配偶者を助け」るのも良いだろう、とも書いている。