川崎からアメリカ挑戦を決めた山根視来の“今”。日本で抱え続けた葛藤とは?【インタビュー/パート1】
川崎と日本代表の間での葛藤
山根の川崎からロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍が発表されたのは2024年になったばかりの1月6日。 日本ではあまり馴染みのないMLSへの挑戦。その背景には大きな葛藤があった。 ここで少し時計の針を戻そう。 2020年に湘南から川崎に加入した山根は、すぐさま4-3-3の右SBに定着し、前年はリーグ3連覇を逃したチームの快進撃の一端を担い、黄金期を仲間とともに築いた。当時の川崎にはそれこそ、三笘薫、旗手怜央、守田英正、田中碧、谷口彰悟ら今や日本代表の常連となったメンバーが顔を並べ、さらには中村憲剛、家長昭博、小林悠といった偉大な先輩たちの背中があった。 誰もが厳しい意見を出し合いながら高め合うグラウンドで山根も日々力を付け、2021年3月には27歳でA代表デビューを飾ることになる。 国際親善試合として組まれた横浜での日韓戦。山根が“持っている”のはこうした舞台で結果を残すからである。17分、右SBとしてスルスルと駆け上がった山根はエリア内でパスを受けると豪快なシュートでネット揺らす。その名を広く知らしめるには十分な一発だった。 もっともこのゲームが、川崎と日本代表という二足の草鞋を履く濃密で、何度も厳しい現実を突きつけられる日々の始まりでもあった。 「ここ数年、自分の実力とA代表でやらなくちゃいけないレベルと、すごくギャップは感じていました。自分のなかでバランスを崩すことがすごく多かったですね。代表の試合に行くと、本当に速くて、強くて、身体を当てても弾かれるとか、足が長いとか、そういう相手が基本で、それをJリーグに持ち帰って意識してプレーするようにしていました。 フロンターレと日本代表のふたつのチームで、守備のやり方や個人に求められるものの違いについては、自分の頭を混乱させることが多かったと思います。 それこそ無理に取りに行ってしまったり、自分のなかで駆け引きをして、本来ならやられないためにポジションを取らなくてはいけないところを、自分ひとりで奪うためのポジションを取ったり。いろんなことにチャレンジしてみましたが、それが上手くいく試合と、いかない試合の対比がすごくありました。代表に行くたびに、ひとりで奪い切る能力の高い選手の姿を見て、Jリーグに帰って、自分だけガーっとボールにいって穴をあけることも多々ありましたから」 それでも、そんな山根の姿勢を川崎の鬼木達監督は認めてくれた。 「オニさんに、その奪いにいくプレーを否定されたことは一度もないです。それこそ『ドンドン行って良いし、それがミキの魅力だから』といつも声をかけてもらっていました。そこは本当にありがたかったですね」 誤解を招かないように山根も「Jリーグだからダメだとは自分も思っていません」と強調する。「(Jリーグでも)できる選手はできるし、日常にしていくことが大切」と続けるように、現にチームメイトだったCB谷口彰悟は、川崎所属として出場したカタール・ワールドカップで、世界の一線級の選手たちと堂々に渡り合ってみせた。 それでも山根の胸のなかには消化し切れないある想いが広がっていったのである。 【パート2へ続く】 ■プロフィール やまね・みき/1993年12月22日生まれ、神奈川県出身。178㌢・72㌔。あざみ野F.C.―東京Vジュニア―東京VJrユースーウィザス高―桐蔭横浜大―湘南―川崎―ロサンゼルス・ギャラクシー。J1通算196試合・14得点。J2通算37試合・0得点。日本代表通算16試合・2得点。粘り強い守備と“なぜそこに?”という絶妙なポジショニングで相手を惑わし、得点も奪う右SB。 取材・文●本田健介(サッカーダイジェスト編集部)
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