内戦勃発から13年...シリア政権スピード崩壊の背景に「独裁者アサドの猜疑心」
自力では初めから勝ち目なし
アサドは忠誠心が疑わしい部隊が反政府派に寝返ることを恐れるあまり、使えるはずの戦力のほんの一部しか実戦に回さなかった。これではシリア各地で起きている反乱を一気に鎮圧することは不可能だ。 当初、政権側は特定の都市に集中的に部隊を投入し、一定の成果を上げた。だがこの方式では反政府派は政府軍の守りが手薄な地域に逃れ、次の攻撃に備える。 結果、政府軍が一つの都市を制圧しても別の都市が奪われ、モグラたたきのようになる。 こうした非効率的なやり方に指揮官が少しでも口を挟もうものなら、自宅軟禁されるか、ひそかに連れ去られて始末されるのがオチ。軍隊内には相互不信が渦巻き、将官たちは密告合戦を繰り広げるようになった。 反抗的と見なされた指揮官や兵士がどんどん処分されるため、政府軍は兵員不足に陥り、12年までには政権寄りの犯罪集団や民兵組織も反乱鎮圧に駆り出されるようになった。 規律も統制もズタズタな軍隊でも、大規模な砲撃と空爆でじわじわと反政府派を追い詰めることはできた。 13年にイランがシリア内戦に本格的に介入。イラン革命防衛隊の精鋭部隊を率いていた故ガセム・ソレイマニはシリア入りしてわずか数日で、この戦いではシリア軍は「役に立たない」と判断した。 以後、イランの作戦部隊、そしてイランの支援を受けたレバノンのイスラム教武装組織ヒズボラ、それにロシア空軍の支援部隊と、外国勢が必要に応じてシリア軍を使いながら、反政府派と戦う状況となった。 ロシアとイランの介入で、火力では政権側が圧倒的に有利になり、シリアの大半の地域を徐々に掌握。その後の10年間は政権側が優勢を保ちつつ膠着状態が続いた。 だが政府軍の士気低下は目を覆うばかりで、外国勢の支援を失えば、総崩れは時間の問題だった。 ロシアはウクライナ戦争に、イランはイスラエルとの紛争に気を取られ、イランの代わりにイスラエルと戦ったヒズボラが戦力を大幅に失うと、アサドはもはや現状を維持できなくなった。 これほどあっけなく幕切れを迎えるとは誰も思っていなかったが、アサドの失脚は驚くには当たらない。クーデターを防ぐために骨抜きにした軍隊に反政府派の攻勢を止めろと言ってもしょせん無理な注文だった。 独裁政権としては、アサド政権は成功例でも失敗例でもある。バシャルは同時代の独裁者の大半よりも長く命脈を保った。 内戦勃発から13年間も政権の座にしがみつき、その間に少なくとも50万人の国民を死に追いやった。そして土壇場の政権放棄で命拾いし、安泰な引退生活を送ろうと亡命先に旅立ったのだ。 From Foreign Policy Magazine