「路頭に迷いつつある都市」渋谷から見える日本社会の未来、カルチャーの行方とは? 社会学者の吉見俊哉さんとアーティストの宇川直宏さんが渋谷パルコで対談「渋谷半世紀」~若者の聖地の今~
2人の対話は渋谷という盛り場の発展史をさかのぼってゆく。 宇川「1964年東京五輪の時代に広大なワシントンハイツ(米軍用地・住宅地)が返還され、跡地に代々木公園と国立代々木競技場とNHK放送センターができた。NHKが移転してきたことで、渋谷は情報の発信地だという意識が芽生えた。渋谷公会堂が64年に開館。69年には渋谷ジァン・ジァンができ、その隣の事務所では作家安部公房(あべ・こうぼう)がいち早くシンセサイザーを演劇に導入した。いま問題が注視されるジャニー喜多川(きたがわ)さんがワシントンハイツに暮らし芸能活動に踏み出すなど、数々のエンターテインメントが生まれた。宇田川町の安藤組の安藤昇(あんどう・のぼる)が、愚連隊(ぐれんたい)と呼ばれた青少年の不良集団の文化をファッショナブルにしていった時代もあった」 元組長の映画俳優として活動した安藤昇の破天荒な足跡を、吉見さんは今年刊行した著書「敗者としての東京 巨大都市の隠れた地層を読む」の中で詳しく分析している。
吉見「かつて渋谷一帯は兵営の多い街だった。赤坂や六本木から原宿、渋谷までが軍都東京を代表する一大拠点。渋谷の遊興施設も軍人がお得意様だった。敗戦後、代々木練兵場がワシントンハイツに変わるなど、この地域は日本軍の街から米軍の街に変貌する。その米軍の街で派生したファッショナブルな文化に若者たちが吸い寄せられていった。でも、米軍基地がこんなに都心にあっては対米感情が悪化すると心配したアメリカは、オリンピック開催のためにワシントンハイツを返還し、米軍の街はオリンピックシティーとなった。だから、オリンピック以前の渋谷には、日本軍や米軍との深い結びつきがある」 「敗戦で植民地と軍事力をなくした日本は、米国に最も近い国として自分を位置づけ直し、アジア諸国に対する優位を保とうとし続けた。そして、東京の中で米国に最も近いはずの場所が六本木、青山、赤坂、表参道、渋谷だった。渋谷がこうした戦後のアメリカンシティーから果たして脱却できたのかどうかは、いまだに疑問だ」