ナイキの厚底でどん底 奮起のアシックス廣田氏「世界最速のシューズを」
ボロクソに言われた夜
今でも覚えていますが、19年11月に米ボストンの投資家説明会で話すと、機関投資家から厳しいことを言われまた。「アシックス、どうしたんだ」「全然勢いがないじゃないか」とか、ボロクソに言われて悔しくて、時差ボケもあってその夜はよく寝られませんでした。 ちくしょうと思っていたら、やはりもう一度、頂上に挑戦すべきだという思いがふつふつと湧いてきました。そして、1位を目指すプロジェクトを立ち上げることを決意したのです。 プロジェクトの名前は、創業者である鬼塚喜八郎と関連があります。鬼塚はトップアスリートという「頂上」を押さえることで、その下に広がる大きな市場の支持を集められるという「頂上作戦」を展開しました。その「頂上(CHOJO)」の頭文字を取ってCプロジェクトと名付けたのです。 一般的に新しいシューズをつくる時は、開発部隊がリードしていきます。研究に開発、マーケティング、知的財産、製造、販売、広報など様々な部門が関わり時間を要します。従来は素材研究から始めて、だいたい3年先の発売をイメージして開発します。 しかし、それではスピードが足りません。これらの部門の若手社員たちを集めて、19年冬に「絶対に世界最速のシューズをつくろう」とCプロジェクトの立ち上げを宣言しました。東京五輪に間に合わせることを目標にしたのです。小さな会議室に集まり、通常は3年かかるところを1年で出そうと号令をかけました。 社内では相当な危機感がありました。シェアが急激に減っていましたから。これは世界各地の競技会だけじゃなくて、我々のシェア自体にもかなり影響が出てきていました。ブランドの勢いみたいなものに対しても、影響が出てきていました。みんなもそれは分かっていたので、基本的には私の方針に対してポジティブな反応でした。 最初の頃は週に1回ぐらいミーティングをして、進捗状況を見たり、開発の現場にも行ったりしていました。みんな生き生きやっていましたよね。目標がはっきりしているので、絶対にいいものを出すという意気込みでした。 そんな時、20年10月のロンドン・マラソンで素晴らしい結果が出ました。当社と契約しているサラ・ホール選手(米国)が、規格を通った我々のプロトタイプを履いて、ゴールの寸前で前の走者を抜いて2位に上がるという快走を見せてくれたのです。これも一つの自信につながりましたね。 Cプロジェクトでは特に、選手の声を聞くことを重視しました。以前から聞いてはいたのですが、試作品ができてから選手に履いてもらっていたところを、Cプロジェクトでは図面作成など開発の初期段階から選手を巻き込みました。