東京国際映画祭を変えた安藤裕康チェアマンは元外交官にして「銀髪の映画青年」だった
文化と外交を結びつけた外交官
しかし、彼の経歴をたどれば、文化的な雰囲気をまとったムービースターのような登場は、決して意外ではない。小学校6年生で日本文学と世界文学の大部分を読破した彼は(文学に詳しい恩師のおかげだったと謙虚に述懐していたが、先生が読ませる全てを自分のものにする子どもは極めて限られている)、東大文学部在学中に演劇部員として舞台に立った。「スピーチも独白演技の一種といえる」という筆者の中央大学演劇映画学科時代の恩師(現韓国文化体育観光大臣)の言葉を思い浮かべてみると、ここ数年の間にアジアの映画賞授賞式で見た中で、彼が一番すてきなスピーチができたのも納得できる。 当時の彼の同窓生の中にはテレビディレクターや映画監督になった人が多かったが、20世紀を代表する日本映画に数えられる「太陽を盗んだ男」の監督の長谷川和彦がその代表である。そして、このような「ホモ・ルーデンス」の体質は、彼を日本ではその前例のない文化と外交を結び付ける外交官にさせた。 世界史中の人物を例にとると、劇作家で外交官として1921年には駐日大使として赴任し、日本人の高貴な真価を見抜いたポールㆍクローデルと、やはり劇作家で、外交官として緊張が高まった欧州情勢を「トロイ戦争は起こらない」という力作に反映したジャンㆍジロドゥの末裔(まつえい)と言えるだろうか。あるいは不死の錬金術師という伝説の人物、サンジェルマン伯爵のイメージか。
アジアセンター創設、パリのジャポニスム展
彼の驚くべき経歴は、2011年の独立行政法人国際交流基金理事長に就任してから始まる。一般人の認識としては、省庁での現役時代以降、少し余裕をもって国に奉仕するポジションと考えられるこの立場で、彼は「最長寿理事長」として「全方位文化外交」という国際関係の新地平を切り開いた。 その代表的な業績のひとつが、14年のアジアセンターの新設である。アジアの人と人とをつなげ、ネットワークをひろげ、文化を共につくることを目指していたこの特別ユニットは、映画、演劇、音楽とスポーツはもちろん、日本語教育、学術までを含むさまざまな事業を行うことで、当初は東京オリンピックのブームアップを旨としていたが、結果的には日本を中心にアジア文化の新たな開花を促すことになった。 その次が、18年7月から19年2月まで8カ月にわたり、欧州文化の心臓部であるパリを中心に開催した「ジャポニスム2018: 響きあう魂」。公式企画101件、特別企画4件、参加企画204件のスケールを誇ったこの大型文化紹介事業は、世界にも珍しい国家的イベントだった。来場者は総計350万人超。この事業のおかげで、プチョン国際ファンタスティック映画祭でプログラムㆍアドバイザーとして日本映画を担当していた筆者も、改めて日本文化をたたえる欧州からのゲストに会い、鼻が高い思いをしたものだ。 そしてこの「ジャポニスム2018」が終わってからわずか5カ月後、映画業界のラブコールにより、東京国際映画祭チェアマンに就任。「Mr. TIFF」のイメージを世界にアピールしながら、ベネチア(1932年創設)、カンヌ(46年)、ベルリン(51年)に比べれば85年創設で、まだまだ若手の映画祭をリードしている。