ダウン症の子に“社会的虐待” 私の恥ずべき愚行から考える偏見の真因 不寛容な日本社会の根底にある「無知」のマズさ
■人間とは「総合的な生き物である」 私たちは子どもたちに教育の機会を与える。だが、教育は「人間」を生産的で、経済の役に立つ「労働者」に作りかえるための道具ではない。 理論でもいい。論理でもいい。教育は「理(ことわり)」にしたがう。運悪く生産性がなかった、それだけの理由で障がい者を不当に扱う。それは「理不尽」であり「不条理」である。そのように「理」から外れぬよう、教え諭すのが教育の役割である。 「人間とは総合的な生き物である」
これは恩師である神野直彦先生の大切な教えの1つだ。 私たちには、できることもあれば、できないこともある。彼女ら/彼らもまた、同じであり、私よりも優れている点だってもちろんある。私自身、障がいのある人と共に生きることの愉しさをもっと、もっと、知りたかった、そう強く思う。 反知性主義が叫ばれるようになって久しい。だが、人間が総合的な存在である以上、生産性という、たった1つの物差しによって偏見を抱き、差別するのではなく、相手を理解し、よりよい接しかたを見つけていくための知性がこの社会に必要だ。
ドラえもんに「10分おくれのエスパー」という話がある。この話では、ジャイアンが友だちを一方的に傷つけるのだが、彼の脅し、理不尽さにのび太は屈し、正しいのはジャイアンだ、といってしまう。彼は帰宅し、強い後悔の念とともにこうつぶやく。 「正義を守るにも力がいるんだなあ。力が欲しいなあ」 そう。私たちには力が必要だ。ただしそれは腕力ではない。権力でもない。知性という力だ。私たちが自らの無知を知り、いくつになっても学ぶことを忘れず、現実を知り、子どもたちに伝えていく。この努力なくして、寛容な社会など永遠にやってこない。
■世界に誇れる寛容な社会を作る 障がいを社会にひらく。それは途方もないエネルギーを必要とするだろう。 だが、世界に誇れる寛容な社会を作る、という目標は、私たちがチャレンジする価値のある、全力で取り組むべきテーマではないか。同時にそれは、社会的な虐待をし、その事実と向き合おうとしないまま、大人になった私(たち)の責任でもある。 <未知>なる現実へと若い人をいざない、<既知>に変え、<無知>ゆえに生まれる偏見、そして差別をなくしていく。そのためには、まず、私たち大人が、障がいを知り、これまでの自分の愚かさを省みなければならない。
井手 英策 :慶應義塾大学経済学部教授