ダウン症の子に“社会的虐待” 私の恥ずべき愚行から考える偏見の真因 不寛容な日本社会の根底にある「無知」のマズさ
だから、自分と違って見えるその子を見て、言葉にできない恐怖を感じた。同じ肌の色の子。同じ国の子。同じような背格好で同じ言葉を話す健康な子。そんな<単色の社会>など、世界中のどこを探しても見つからないというのに。 ■障がい者への差別は「大人たちの責任」 障がいについて知り、一緒に過ごす機会がなければ、相手のことなどわかりようがない。だから、私たちは偏見を持つ。 そう、偏見は<無知>から生まれている。
障がい者への差別は、障がいについて教えようとしない、教える能力すら身につけてこようとしなかった大人たちの責任である。この大人には、当然、私も含まれている。 子どもにとって、障がいのある人は<未知>の人だ。だが、私たちが、彼女ら/彼らに、学びのチャンスさえ与えれば、障がいのある人の生きづらさは<既知>に変わる。 一方、私たち大人が、障がいのある人たちのことを知ろうとせず、子どもたちに語るべき言葉を持てないのは、たんなる<無知>の仕業である。この<無知>こそが偏見を生み、差別へと子どもを導く。
社会支出に占める障がい者向け給付の割合を見てみよう。日本のそれはOECDに加盟した38の国のなかで30位。主要先進国では最低レベルである。 障がい者は数でいえばマイノリティだ。だからこそ、少数者に対する扱いをみれば、その国の人たちの寛容さがわかる。日本は明らかに不寛容な社会である。 私たちは、経済力や防衛力、スポーツの勝ち負けを競いあう。それなのに、少数者へのやさしさを競いあおうとはしない。なぜなのだろうか。
私たちは自己責任を重んじる社会を生きている。生活保障が貧弱な政府を作り、自助努力、自らの責任で生きていくことの価値を重んじてきた。 勤労の美徳という言葉がある。みなさんもご存じのように、勤勉に働き、自己責任で生きていくことは、道徳的に優れた人間の条件である。 これは、生産性のある/なしが、人間の有用性ばかりか、道徳性をも左右することを意味している。生産性のない人、すなわち働けない人たちは、自己責任で生きたくても生きられない人たちなのに、あたかも社会のお荷物であるかのごとく語られる。