野球殿堂入り・黒田博樹氏 恩師が語った高校時代「クロは野球選手の鏡だった」
18日、現在広島で球団アドバイザーを務めている黒田博樹が殿堂入りすることが決定。同じく殿堂入りした谷繁元信とともに、野球殿堂博物館にて開催された通知式に出席した。 【動画】黒田博樹 世界を制する投球術 上宮、専修大と経て広島へ入団すると、1年目から1軍のマウンドに上がる。2005年には15勝で最多勝、さらにはベストナイン、最優秀投手、ゴールデングラブの4冠を達成。2006年には防御率1.85の成績で最優秀防御率を記録して、2008年にメジャーへ移籍。日米通算203勝の記録を打ち立てて、2016年に現役引退。背番号15は永久欠番になるなど、まさに球界が誇るレジェンドの1人として、活躍し続けた。 そんな黒田だが、上宮時代は控え投手で、登板機会はあまりない。大学から一気に活躍してNPB入り、そしてメジャーへの階段を駆け上がっているのだ。 一体、黒田はどんな高校時代を過ごしてきたのか。高校時代の監督である田中 秀昌に聞いた当時のエピソードを再構成してお届けしたい。 (インタビュー初掲2015年11月8日)
唯一の実績は2年秋の近畿大会 控え投手で終わった3年間
元南海ホークスなどでプレーした黒田 一博氏の息子である黒田 博樹。 中学生の時は父親が監督を務めるボーイズリーグ「オール住之江」でプレーしていた。そんな黒田は元木 大介(元巨人)など名だたる選手が甲子園で躍動し、1989年選抜で準優勝した上宮に入学を決める。 しかし、この世代の上宮は錚々たる選手が揃っていた。 まず黒田の1学年上は、日本ハム、阪神でプレーした中村 豊、MLBのロイヤルズでプレーし、主に千葉ロッテマリーンズのセットアッパーで活躍した薮田 安彦選手がおり、同級生には西浦 克拓選手(元日本ハム)、筒井 壮選手(元阪神)、溝下 進崇選手(大阪ガスコーチ)と名だたる逸材が多かった。そんな布陣に、黒田が入り込む余地はなかった。 入学当時はコーチで、黒田の2年秋から監督に就任した田中監督は入学当初は「長身だったけど、ほっそりとしていて練習についていけるか、不安でした」と語るほどだった。だが田中監督が目を惹いたのは練習に取り組む姿勢と学校生活の姿勢の良さであった。 「僕は結構走らせていたけど、クロ(黒田)は自分から走ったり、投げ込みをするなど、人一倍努力ができる姿勢がありました。僕は同時に教師をやっていたのですが、クロの授業に取り組む姿勢も野球部員の中では誰よりも良かったですね」 と当時を振り返る。 新チームになっても黒田の登板機会はなかなか訪れなかった。エース格として投げていたのは、西浦と溝下の2人。西浦はプロ入り後は野手として活躍するが、当時は145キロ前後の速球とスライダーを投げる本格派右腕。溝下は安定感抜群でしっかりとゲームを作れて、度胸溢れる左腕。 黒田は長身から勢いある直球とスライダーを武器にする投手であったが、黒田のスピードを上回るのが西浦で、安定感においては溝下の方が上だった。さらに西浦、溝下ともに野手としての能力も高く、必然と起用するのは西浦か溝下になっていた。 そんな中でも、黒田が輝いた時期が1991年秋である。当時、直球の制球力に苦しんでいた黒田だったが、近畿大会を前に調子を上げていく。 ストレートのキレ、コントロールも安定感があり、これは投げさせられると判断した田中監督は黒田を近畿大会準々決勝の和歌山日高戦でリリーフ登板させる。すると黒田は無失点の好投を見せ、さらに準決勝のPL学園戦でも好継投。決勝進出を決めると、決勝では天理に敗れたとはいえ、この試合でも途中登板で好投を見せ、自信を掴んだ大会でもあった。 しかし近畿大会準優勝ということで、センバツに近づき、甲子園デビューも間近と思われた矢先、学校内で不祥事があり、選抜推薦を辞退することになってしまった。当時の上宮の選手からすれば、じくじたる思いがあったかもしれない。 黒田の甲子園出場は幻に終わった。 秋の近畿大会では上り調子だった黒田だったが、「そこから調子を落としてしまったようだった」と田中監督が語るように、最後の夏は西浦と溝下の2人が中心となり、黒田は目立った活躍もできないまま、夏を終えた。 かくして高校時代は控え投手で終わった黒田だったが、田中監督は黒田の取り組む姿勢を高く評価していた。 「野球、私生活においてもとにかく一生懸命、真面目に取り組める選手でした。そういうところが大学時代に素質を開花させたのかなと思います」と振り返る。