野球殿堂入り・黒田博樹氏 恩師が語った高校時代「クロは野球選手の鏡だった」
恩師が語る黒田 博樹の義理堅い人間性
夏が終わり、黒田は東都大学野球連盟に所属する専修大進学を決意する。 専修大には黒田と仲の良い先輩投手がいたこと、また両親からよりレベルの高い関東で勝負してほしいという希望があったこともあり、進学を決意した。そして専修大入学後、黒田はメキメキと実力を付けていった。その成長ぶりは帰郷のたびに高校に顔を出し、バッティングピッチャーなどをする姿から田中監督も実感していた。 「リーグ戦が終わった後にクロが投げてくれるんですが、だんだんボール自体が凄くなっているんですよね。諦めずにやってきてよかったなと感じますね」 黒田は3年秋に日本大との入れ替え戦に勝利し東都一部復帰を決め、4年は春秋通し東都一部でプレー。 最速150キロを計測する剛腕投手としてスカウトからの評価を高めていった。 当時のドラフトは逆指名制度があり、選手が球団を選べる制度だった。 黒田は広島東洋カープを選び、入団を決める。広島の入団に際して、田中監督は「高校時代を知る我々からすれば、クロがプロへ行くなんて快挙なんですよ。それも2位で。私は嬉しくて嬉しくて、新品のグラブを彼に送りました」 そのグラブには「闘魂 黒田博樹」と刺繍がされていた。 そしてプロ入り後、黒田の義理堅い人柄が明らかになってくる。 1997年4月25日、黒田はプロ初登板で快挙を成し遂げる。巨人戦に先発した黒田は、自慢の速球を武器に強力・巨人打線を1失点完投。当時、広島の新人投手が初登板初完投勝利は球団4人目だったが、巨人戦では初の快挙だった。 この快挙にスポーツ紙が黙っているわけはなく、多数の紙面で大きく取り上げられた。そしてあるスポーツ紙では選手の宝物を挙げるコーナーがあったのだが、この勝利の翌日はもちろん黒田が取り上げられていた。そしてその時、黒田が宝物としてあげたのが前述のグラブだったのだ。 田中監督からすれば非常に嬉しいエピソードである。監督がそのことを知ったのは、黒田の母・靖子さんからの手紙だった。 「お母様から手紙とその新聞の切り抜きを私に送ってくれたんです。手紙には達筆な字で感謝の思いがつづられており、そして新聞の切り抜きが添えられてありました。そこまでしなくてもいいじゃないですか。でもその心遣いが嬉しかったですね」 黒田の母である靖子さんは体育教師で、黒田を厳しく育てた方として有名だ。しかし、そのしつけが、今の黒田を築いたと田中監督は語る。 「クロの素晴らしい人間性、義理堅さというのはお母様の教育によってできたものだと思います。お母様は本当に素晴らしい方でした」 黒田は2005年にリーグ最多勝を挙げたのだが、その年のオフ、地元のローカル局が黒田のアマチュア時代を取り上げる、という企画があった。 その時、黒田が高校時代の思い出の場所としてあげたのが、上宮高校のグラウンドの近くにある科長神社だった。そこは階段の段数が多く、投手にとっては格好の練習場となっていたのだ。案内人として取材に協力し、その話を聞いた田中監督は「あいつの高校時代は走ることしか印象になかったのかな」と笑った。 またその取材中、突然田中監督に黒田から電話があった。 「監督、すいません。こんなことに協力してくれて」という謝りの電話だったが、田中監督は「いいんだよ!こんなことでいいなら何でも協力するから!」と言って電話を切ったという。 その姿を見ていたテレビ局の人は田中監督に、「黒田さんは我々、マスコミを大事にしてくださる方で、人間性も本当に素晴らしい方です。多くの方々がそう思っています」と声をかけた。 「そう声をかけられたときは本当に嬉しかったですね」と振り返る田中監督。 黒田の義理堅いエピソードをもう1つ紹介しよう。 田中監督が東大阪大柏原高校の監督時代、2011年に夏の甲子園出場を決めた。すると、黒田から全部員分のTシャツが学校に送られてきた。 背中には「苦しまずして栄光なし!」という言葉が刻まれていた。これは黒田の座右の銘である。このプレゼントに感激した田中監督と東大阪大柏原の選手たちは、そのお返しとして、ビデオレターを送ったという。 野球を通じて、人間性が大事だということがよく語られるが、他人を気遣った行いとお礼が何気なくできる黒田の姿勢は球児だけではなく、我々も見習うものがある。