終戦の日 天皇陛下のおことばを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
戦後50年に「慰霊の旅」
1995年(戦後50年)に、長崎、広島、沖縄、東京の順で訪れられました。なお東京は1945年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者の遺骨が祀られている東京都慰霊堂への訪問です。 一連の日程を終えた後、天皇は宮内記者会(宮内庁記者クラブ)に感想を発表。この4か所を「先の大戦において、特に大きな災禍を受けた」地域と認識し、終えた後は「4地域にとどまらず、広く日本各地、また、遠い異郷にあって、この戦いによりかけがえのない命を失った多くの人々と、今なお癒(い)えることのない悲しみをもつ遺族の上に深く思いを致します」と、全ての戦没者に思いを致したばかりか、外国人をも含めるであろう「この戦いに連なる全ての死者の冥福を祈」るとの思いを示されました。
海外での激戦地訪問
2005年(戦後60年)にはサイパン島を訪問されました。同島は1920(大正9)年から終戦まで国際連盟の下での日本の委任統治領でした。かなりの日本人が移住したこの島も44年6月から7月にかけて日米両軍の激戦地と化し、居留民らが自決した「バンザイクリフ」という悲劇も発生しました。 出発にあたって天皇陛下は「食料や水もなく、負傷に対する手当てもない所で戦った人々のことを思うとき、心が痛みます」と述べられ、日本人のみならず米軍の戦死者や現地島民の犠牲者も多かったことを「決して忘れてはならない」。ここでも日本人だけでない「命を失ったすべての人々を追悼」する決意を表しました。 同年の天皇誕生日の記者会見では「米軍がサイパン島へ上陸してきた時には日本軍は既に制海権、制空権を失っており、大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました」と言及。「過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努める」重要性を示されたのです。 2015年(戦後70年)にはやはり委任統治領であったパラオ共和国を訪問。同国の一部であるペリリュー島は1944年9月から11月まで日米両軍が激突した太平洋戦争屈指の激戦地です。この時も「先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼」(晩餐会での答辞)する姿勢を示されます。ペリリュー島では日本政府が建立した「西太平洋戦没者の碑」とともに敵であった米陸軍第81歩兵師団慰霊碑にも供花しました。 2016年にはフィリピンを訪問されました。太平洋戦争緒戦の勝利でいったん米軍を駆逐した日本軍も、1944年からアメリカの反攻に遭って戦闘が続いたのです。晩餐会の答辞で天皇陛下は「貴国の国内において日米両国間の熾烈(しれつ)な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つ」いたのを「決して忘れてはならない」と語っています。 2017年はベトナムへ。同国はかつてラオス、カンボジアなどとともにフランス領インドシナ(仏印)と呼ばれるフランス植民地でした。第二次世界大戦でそのフランスがドイツに降伏(1940年6月)し、フランス本土の多くがドイツに占領され、かろうじて許されたヴィシー政権は対独協力を強いられます。 いわば主なき地となった仏印に日本は進駐しました。40年9月には日独伊三国同盟が締結されます。以後、終戦まで何らかの形で日本軍が当地に止まっていました。終戦を迎えた直後にホー・チ・ミンを指導者と仰ぐ革命が起きてベトナム民主共和国の建国を宣言。しかしフランスは認めず再植民地化へと動いたため、インドシナ戦争へと突入しました。 2017年の天皇誕生日で陛下は「先の大戦の終了後もベトナムに残り、ベトナム人と共にフランスからの独立戦争を戦った、かなりの数の日本兵が現地で生活を営んだ家族の人たちに会う機会もありました」と記者会見で述懐されています。
--------------------------------- ■坂東太郎(ばんどう・たろう) 毎日新聞記者などを経て、日本ニュース時事能力検定協会監事、十文字学園女子大学非常勤講師を務める。著書に『マスコミの秘密』『時事問題の裏技』『ニュースの歴史学』など