終戦の日 天皇陛下のおことばを振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
●沖縄
沖縄は激しい戦闘で多くの市民が巻き込まれ、本土の独立回復後も取り残されたので、天皇への感情は複雑でした。昭和天皇の沖縄訪問はついに果たされず、今上天皇も皇太子時代の1975年7月に訪れた際、左翼系過激派に火炎瓶を投げつけられるなどの不穏な動きが一部にあったのも事実です。 即位後初の訪問は、1993年の全国植樹祭。沖縄平和祈念堂での「特別ご挨拶」で「即位後、早い機会に、沖縄県を訪れたいという念願がかない」と待ちわびていた気持ちを吐露し、「到着後、国立戦没者墓苑に詣で、多くの亡くなった人々をしのび、遺族の深い悲しみに思いを致しています」と祈りの言葉を述べられました。沖縄に関しては特に「住民を巻き込む地上戦が行われ、20万の人々が犠牲となったことに対し、言葉に尽くせぬものを感じます」と深い哀悼の念を表しました。 さらに「世界は、平和を望みつつも、いまだに戦争を過去のものにするに至っておりません」と憂慮。「沖縄県民を含む国民とともに、戦争のために亡くなった多くの人々の死を無にすることなく、常に自国と世界の歴史を理解し、平和を念願し続けていきたい」と思いを新たにされています。 植樹祭そのものでの「おことば」でも「残念なことに、先の戦争でこの森林が大きく破壊されました。多くの尊い命が失われた、ここ糸満市では、森林が戦火によってほとんど消え去りました」と戦争に言及しています。 天皇の来沖は「三大行幸啓」でもう1回(2012年)、「戦後50年」(1995年)で1回、国立劇場おきなわ(浦添市)のこけら落としで1回(2004年)、1944年に沖縄の子どもらを米軍襲来から避難させるべく運んだ「対馬丸」が米潜水艦に沈められて1500人弱が犠牲になった事件への慰霊に1回(2014年)と計5回、沖縄を訪れているのです。
●広島・長崎
広島には「三大行幸啓」で3回(1989年、1995年、1996年)、アジア競技大会開催(1994年)で1回、「戦後50年」(1995年)で1回、広島豪雨土砂災害の被災地お見舞い(2014年)で1回の計6回。長崎は「三大行幸啓」で3回(1990年、2002年、2014年)、雲仙普賢岳噴火にともなう被災地のお見舞いと復興状況の視察で2回(1991年、1995年)、「戦後50年」(1995年)で1回の計6回訪れています。 1995年の広島訪問は全国植樹祭で、「原子爆弾により多くの人命が失われた広島県」と原爆について触れられました。96年の国民体育大会開会式でも「戦争によりとりわけ多くの苦しみを経たここ広島県」と思いを述べられているのです。 長崎では95年の訪問で視察した「恵の丘長崎原爆ホーム」の入居女性(被爆者)と2014年の国体開会式臨席にともなう視察で再会するなど細やかな交流を温められました。 なお天皇は広島、長崎、沖縄以外でも「三大行幸啓」で訪れたさまざまな地で慰霊をなされています。