戦国武将で最低評価を受けた今川義元 愚将ではなく政治力のある賢将として再評価!
かつて「愚者」として低い評価を受けてきた歴史の敗者たち。しかし、彼らは果たして本当に「滅ぼされるべき敵」だったのだろうか? 歴史研究の深化によってその実像が明らかになるにしたがって、再評価されている武将も少なくない。今回はその1人、今川義元の真実の姿をご紹介する。 ■織田信長に敗れた今川義元の権威失墜と虚像 人を評価するのは、仮に同時代に生きていたとしても難しい。まして、それが戦国時代の武将であれば、なおさらのことだろう。評価するにしても、当然のことながら面識はなく、しかも記録がすべて残されているわけではないためである。特に合戦に敗れて滅んでしまった大名家の記録など、ほとんど残らない。残っているのは、勝者側の記録くらいである。その記録も、勝者にとって都合がよいように書かれているため、必然的に敗者の評価は低くなってしまう。 戦国武将のなかで、これまでに最も低い評価をされてきたのは、今川義元ではないだろうか。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまったことで、武将としての権威は地に落ちてしまった。歴史小説や時代劇においては、公家かぶれの愚将として描かれることも少なくなかった。ゆるキャラの「今川さん」が泣いているのも、亡くなってからの低い評価を嘆き悲しんでいるためである。 なぜこのようなことになってしまったのかといえば、すべては桶狭間の戦いに起因する。周知のように、圧倒的に有利な軍勢で尾張に侵入した義元が、兵力に劣る信長に討ち取られてしまった。しかも、このとき義元が輿に乗って出陣していたことから、馬にも乗れない武将として揶揄されることとなったのである。 桶狭間の戦い後、信長は義元から奪った左文字の刀に、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と刻ませ、愛刀にした。それだけ、信長にとってはこの一戦こそが人生を左右するものだったのである。もしもここで信長が負けていれば、信長が天下人になることもなかったことは間違いない。 こののち、信長の評価が高まると、相対的に義元の評価は低くなっていく。江戸時代の軍記物語にはその傾向が強く、そうした義元像が近代に受け継がれることとなった。しかしながら、戦後には『静岡県史料』の編纂過程で、同時代の史料が収集され、義元の治世が客観的に解明されてきている。義元に対する再評価は、ここから始まったといってよいだろう。 実際、義元は家督を継いだ直後の天文5年(1536)には検地を行っており、これは全国的にみても早い。検地の目的は土地を掌握することであり、家臣に対し、土地の多寡に応じて軍役を負担させることができた。安倍金山・井川金山などの金山から金を産出させていたほか、東海道を通る陸上交通や駿河湾を通る海上交通の交通網も整備し、商品流通がしやすいようにしていたことも明らかにされている。 また、義元は、父氏親が定めた分国法「仮名目録」33か条に追加21か条を制定していた。いわゆる「仮名目録追加」である。名前は「追加」ではあるが、必ずしも追加だけしたものではなく、義元の意向を反映して修正されたものも含まれている。父の定めた条文を撤回した部分もあり、家臣らの意見を聞きながら実情に即して対応していた様子がうかがえる。こうした事実からすると、義元は愚将などではなく、むしろ政治的な能力は高かったに相違ない。 桶狭間の戦いの実情についても、いろいろなことが明らかとなってきた。確かに義元は、兵の数で圧倒していることで慢心していたことは否めない。しかし、子の氏真に家督を譲ったうえ、氏真を駿府に残すというような慎重さも兼ね備えていた。少なくとも、万が一のことも想定はしていたのである。 かつては桶狭間で義元が本陣をおいた場所について、狭い谷底だったと言われてきた。もしそれが事実であれば、兵法の常識を知らなかったことになる。しかしながら、現在では、義元が本陣を置いたのは「桶狭間山」であったことも明らかにされている。だとすれば、十分に織田方を警戒していたことは間違いない。 義元が輿に乗っていたのは事実であり、これは『信長公記』にも書かれている。ただし、馬に乗れなかったのではなく、輿に乗る権利を幕府から与えられていたため、権威付けとして輿に乗っていたことも明らかにされている。実際、逃げる際に義元は馬に乗っており、馬に乗れないほど太っていたということでもない。 この日、お昼ごろに桶狭間は豪雨であった。おそらく、近くも見えないくらい雨が降っていたのだろう。『松平記』によれば、この隙に信長は、兵を二手に分けて義元の本陣に近づき、雨があがると同時に、奇襲をかけたのである。 以上のことからすると、義元が武将として劣っていたということはなかったことになる。信長のほうは天気を予測していたのかもしれないが、予測できなかった義元を責めることもできないように思われる。
小和田泰経