体中に激痛、麻酔も効かず眠れない「生き地獄」…「腎臓移植手術」を受けた患者の「緊迫した日々」
「私たちは必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった」 なぜ、透析患者は「安らかな死」を迎えることができないのか? どうして、がん患者以外は「緩和ケア」を受けることさえできないのか? 【写真】配偶者というだけでは「腎移植のドナー」になれない、ドナーになる厳しい条件 10年以上におよぶ血液透析、腎移植、再透析の末、透析を止める決断をした夫(林新氏)。その壮絶な最期を看取った著者が記す、息をのむ医療ノンフィクション、『透析を止めた日』(堀川惠子著)が刊行された。 『透析を止めた日』は、これから透析をする可能性のある人、すでに透析を受けている人、腎臓移植をした人、透析を終える時期が見えてきた人だけでなく、日本の医療全般にかかわる必読の書だ。 本記事では、〈「配偶者」というだけでは、「腎移植のドナー」になれない…多くの人が知らない、ドナーになるための「厳しい条件」〉につづき、林氏が手術を受ける様子を見ていく。 ※本記事は堀川惠子『透析を止めた日』より抜粋・編集したものです。
手術の日
手術は2007年9月6日。 10日前から入院し、さまざまな検査や事前処置が始まった。 まずは免疫抑制剤の服用だ。ネオーラルという大粒の薬(25)を朝晩5錠ずつ、あわせて10錠。他にも数種類の薬があり、まさに薬をゴクゴク飲む感じ。これも「拒絶反応」に備えるためだ。自分の身体が備えている免疫機能は、新たに体に入ってきた移植腎を異物と見なし、抗体を作って排除しようとする働きがある。だから事前に免疫力を落としておかねばならない。 どんな手術でも同じことだろうが、何が起きても文句は言いません、というような趣旨の書類に何枚も何枚もサインさせられて、余計に気が滅入った。 それでも林はどこか気丈な風をよそおっていた。 「全身麻酔の手術だから、確かに何が起きても不思議はない。病院の不味いメシが最後になったらたまらんから、外で美味いものを食っておこうぜ」 手術の数日前になって、無邪気にそんなことを言い出した。 予定ではこれから4週間、長い入院生活が始まる。一日だけ病院の許可を得て、私が運転して恵比寿のホテルまで中華料理を食べに出かけた。リンもカリウムも気にせず高価なコースを奮発したが、林は言うほどに食べなかった。私もあんな味のしない中華料理は経験したことがない。 手術当日は、午前6時過ぎから林と義母への術前処置が始まった。ふたりの個室は隣どうしで、私は双方から呼ばれるたびバタバタと部屋を往復した。家族が見守るなか、二人がストレッチャーに乗せられて手術室へ向かったのは午前9時前だ。 林は手術室の手前あたりで義母と別れたそうだが、のちにこのときのことを一度だけ、私に語ったことがある。手術台へと向かう母親の小さな後ろ姿を目にしたとき、 ──俺は自分が生きたいがために、あんな年老いた小さなおふくろにまで、こんな無理をさせている。今すぐ、手術を中止できないか……。 そんな後悔の念に苛まれるうち、麻酔で意識を失ったという。林は多くは語らなかったが、日々、命をめぐる葛藤と闘っていたのだと思う。私はそれに自分がどう答えたかすら覚えていない。風邪をひいた記憶もおぼろげな私に、彼の気持ちが理解できていたか、今こうして書いていても自信がない。難病を抱える林の懊悩を汲み取るのに、当時の私はあまりに未熟だった。 土気色の顔に酸素マスクをつけた林が、ストレッチャーに運ばれて病室に戻ってきたのは夕方だった。当初伝えられていたより2時間ほど長くかかってヤキモキしたが、大きな問題はなかったと聞いた。 看護師に、無菌状態に保った病室の二重扉の手前まで案内された。ガラス窓から部屋の中を覗きこんだが、フットポンプに巻かれた足先が覗くだけで顔はよく見えない。 「無事に終わったよ、お母さんも大丈夫だよ」 そう声をかけて待合室に戻った。 すると看護師が駆け足でやってきて、「惠子さんの顔が見えなかったので、もう一度呼んでほしいと頼まれました」と伝えにきた。義父は、「なんだ、新は甘えんぼうだな」と冷やかしたが、それもどこか強がっているように聞こえた。まだ、義母の移植腎が動いているかどうか分からないのだ。医師からは、移植腎は術後すぐに働かないケースもある、そうなれば再び透析をして推移を見守る可能性があると言われていた。 再び二重扉の手前に立つと、今度こそと背伸びをして、しっかりガラス窓の向こうを覗きこんだ。チューブだらけのベッドの先に、林の必死な眼差しが待っていた。私がぴょんぴょん飛びはねて両手を振ると、彼は辛そうな表情でまばたきをして見せた。 あとで聞いたことだが、最初の数日は「生き地獄だった」そうだ。体中に激痛がはしり、麻酔もきかず、眠れない。首と腕に3ヵ所の点滴、2日間は絶対安静で体位も変えることができない。排便も差し込み便器だ。てっきり手術は失敗したと思ったらしい。 「どうか、透析にだけはなりませんように」 そう祈りながら待合室で待っていると、30分ほどして主治医がやってきた。長時間の手術で、薄緑色の手術着もマスクもぐっしょり汗まみれだ。 「林さん、尿が出すぎるくらい出ていますよ」 その短い言葉に、思わず義父と立ち上がって固い握手を交わした。 義母の腎臓は、息子の身体の中でしっかりと動き始めた。尿が一滴も出ない病で、長年ずっと苦しんできた。真冬の冷たい雪の中を、真っ暗闇の中を、ひたすら透析クリニックに通った日々が思い出されて泣きそうになった。おしっこが出る、そんな当たり前の現象に、あれほど深く感謝した日はない。 ところが、私はこの大事な場面で失態を演じた。主治医は私たちを安心させようと思ったのか、林の尿が満タンに入った蓄尿バッグを病室からわざわざ運んできた。自信満々な顔で、「ほら、すごいでしょ」と、私の目の前にバッグを掲げて見せてくれたのだが、バッグの中の尿は血液と混じって真っ赤。私は飛び上がって、 「きゃ、赤いっ!」 小さく悲鳴を上げてソファに倒れ込んでしまった。文字通り、腰が抜けた。すると主治医は急に鬼の形相になった。 「手術をしたんですから、血が出て当然です! こんなの、まだまだマシ。こんな色、ぜんぜん赤いとは言いませんよ!」 外科医のプライドを傷つけたようだった。この場面は尿の色ではなく、尿の量に感謝して頭を下げねばならなかった。 義母は翌日からすぐ歩き始め、食事もとれた。もともと低ナトリウムの傾向があったので、数値が回復するのを見届けてから数日で退院した。 私は毎朝、病院に向かう前に林の実家に顔を出して、義母の様子をうかがった。食欲もあって散歩も再開し、生活は術前と変わらないように見えた。その後の定期検査でも、腎臓の機能を示す代表的な数値、クレアチニンの値が大きく上昇することはなかった。80歳になろうとする小柄な身体から臓器1つ摘出したというのに、人間も医療もすごいものだと思った(主治医は腹腔鏡手術の名医だと聞いた)。義母は90代半ばまで健やかに生きた。私は義母の勇気と愛情に、今でも感謝している。 腎移植に関する書物は世に出ているので詳細は省くが、林の術後は通常の移植患者に比べて小さなトラブルを繰り返し、日常生活に戻るまで半年の時間を要した。 最初の1週間は無菌室なので、看護師から様子を伝え聞くことしかできなかったが、手術から3日後、体温がいきなり40℃に跳ねあがった。麻酔用に首に留置している管から感染した可能性があるという。感染症の場合、こういう急な上がり方をするそうだ。尿は出ているので移植腎の拒絶反応ではないと聞いて胸をなでおろした。解熱剤を使えば楽になるが、移植腎にダメージを与える恐れがあるので使わない方針という。こういう発熱はちょくちょく起きた。その都度、蓄尿バッグの量とにらめっこ。それが何色だろうが腰を抜かしている場合ではなくなった。 通常の個室に移ってからも、とにかく感染症に気を付けねばならなかった。うがい手洗いマスクは当然、部屋に持ち込むものすべてに処置が必要で、着替えなど衣類は洗濯したあとで必ず日光にあてて干すか、乾燥後にアイロンをあてた。洗えないものを持ち込むときはアルコールティッシュで隅々まで拭き取る。花類や食べ物の持ち込みは禁止。後年、新型コロナウィルスの流行でさまざまな感染対策が行われたが、それを上回る対応を求められた。 林自身にも新たなルーティンができた。免疫抑制剤を決められた時間にしっかり服用することは基本中の基本で、同じくらい大事なのは尿量の測定。尿量の減少は、腎機能の低下を示すサインだからだ。病室のトイレには計量カップと蓄尿バッグが置かれていて、朝起きて夜寝るまでの尿を溜める。尿が出るたび、その量をメモに記録する。そのうち計量カップを使わなくても、おしっこの出る勢いや出続ける長さから、感覚で尿量が分かるようになったのには感心した。 同時に飲水の量も記録した。透析中は一日500以内と厳しく制限された水分も、これからは逆にしっかり取らなくてはならない。移植腎で40年を迎える、移植患者の希望の星ともいえる先輩からは、「脱水を防ぐため、とにかく水分をしっかり取ることが大事」との助言を受けた。脱水は腎臓を傷める。 林はこのときから、自分の水分バランスを記録に書き始めた。手持ちのノートの縦軸に24時間の目盛りを書き、右側に飲水量、左側に尿量を並行して逐時、記録していけば、水分の出入りがしっかり把握できる。 参考までに、手術翌月の10月の記録を見ると、だいたい1日の尿量は2800、飲水量が2300くらい(飲水量に食事は含まないので、実際に摂取した水分はもっと多い)。多い日は、尿量が4000に達している。 透析時には常に高めだった血圧は、すっかり正常値に戻った。ただクレアチニン(基準値0.6~1.1mg/dL)だけは、2台前半から下がりきらなかった。 * さらに【つづき】〈難病の夫を支えた著者が、「結婚指輪をもらった」ことよりも「はるかに嬉しかったこと」〉では、林氏の術後の様子について見ていく。
堀川 惠子(ノンフィクション作家)