速いだけの運び屋ではない かわら版屋のジャーナリスト魂に火をつけた飛脚
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、そしてインターネット。日々、驚くべき量の情報が、驚くべき速度で、我々の周りを駆け巡っている。まさに情報の「洪水」である。そして、現代人は、ただ情報の受け手に甘んじているばかりではない。誰もが、電話やメール、SNSなどを使って、情報を発信する主体ともなっている。 だから、こう思うはずである。インターネットどころか、テレビも電話もなかったような江戸時代は、いったいどれほど不便だったことだろうか、と。 確かに、それは間違いではない。江戸時代は、今に比べるとずっと不便だった。しかし、情報伝達の速度について言えば、それほど遅かったわけではない。 その理由は、飛脚という職業の存在にある。
江戸ー大坂間を3日で駆ける飛脚は、ただ早く届けるのみならず
飛脚は、手紙や小荷物を運ぶ人々のことで、日本には律令時代から存在していた。しかし、急激に発達したのは、江戸時代に入ってからのことである。1635(元和1)年の「武家諸法度」改定で制度化された参勤交代は、結果として、日本中の道を「人馬が通りやすい」ものに変えさせた。この整備された道を、飛脚は駆け抜けたのである。 もちろん、人間である飛脚に、自動車や、ましてや電話回線のようなスピードは期待できない。しかし、人間であることを考えれば、彼らは相当に速かった。五街道が整備された後で見ると、公的な飛脚である「継飛脚(つぎびきゃく)」は、江戸と大坂の間を、わずか3日で繋いだのである。 また、例えば江戸と地方のような遠隔地のみならず、江戸界隈だけの飛脚も存在した。だから、江戸にいる者どうしで連絡を取ろうと思えば、彼らに手紙の配達を依頼すればよかったのである。 飛脚は人間であるため、移動中に様々な風景を見たり、噂話を聞いたりもできる。つまり、飛脚は、通信手段でありつつ、情報の受け手ともなることができた。 文字通り、多くの情報と一緒に駆け回っていた飛脚たち。「庶民の情報媒体=かわら版」は、彼ら飛脚の存在なくして、成り立つことができなかったものである。