速いだけの運び屋ではない かわら版屋のジャーナリスト魂に火をつけた飛脚
かわら版の安定した情報元=町飛脚 価格は意外とリーズナブル
江戸時代、大きく分けて飛脚は二種類存在した。一つは、公的な飛脚で、先ほども触れた幕府公用の継飛脚や、江戸と領国との間を往復した大名飛脚などである。もう一つは、民間の飛脚で、こちらは「町飛脚」と呼ばれた。 冒頭に掲載した歌川芳艶(二代目)の錦絵は、江戸時代の町飛脚の衣装が描かれた貴重な一枚である。彼らは担ぎ棒に風鈴を付けていたことから、「チリンチリンの町飛脚」と親しまれた。「チリンチリン」という優しい音が、町飛脚接近の知らせとなったのである。牧歌的な江戸時代の風景が目に浮かぶようである。 町飛脚には、公的な継飛脚ほどのスピードはなかったが、江戸と大坂の間であれば、最速4日で駆けることもできた。これは「四日限仕立飛脚」と呼ばれた。ただし、彼らは全行程を一人で走るわけではない。いくつかの宿場で、リレー方式で荷物を受け渡しつつ、移動したのである。 ところで、このような町飛脚は、どれほどのお代を渡せば、仕事を引き受けてくれたのだろうか。 1853(嘉永6)年に成立した『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には、飛脚の具体的な賃銭が紹介されている。例えば、先の「四日限仕立飛脚」は、代金が4両とある。この時期の1両は、現代で言えば5万円程度の価値なので、20万円ほどかかったと思えばよいだろう。相当な高額である。 しかし、情報を一刻でも早く入手する必要がある大店の商家などからすれば、これでも決して高すぎるものではなかった。だから、利用する客は多くいたのである。なお、町飛脚が得意とした近距離便(書簡)については、同じく『守貞漫稿』に、次のような賃銭が紹介されている。一部抜粋してみたい(1文=10~20円で計算)。 <片道便(送り届けるのみの通常便)> ・日本橋―芝大門:24文(約240~480円) ・芝大門―品川:32文(約320~640円) <往復便(先方から返事を受け取って戻ってくる便)> ・本郷―板橋:50文(約500~1000円) ・浅草田町―吉原:50文(約500~1000円) 意外と庶民的で、使いやすい価格だったことがわかる。そして、この町飛脚。彼らこそが、かわら版屋にとって「第一の情報源」だったのだ。 初期のかわら版が、心中事件と好色物を主な題材としていたことは、前回述べた通りである。この時期のかわら版は、現代で言えば「タブロイド紙」に極めて近い。しかし、心中を取り扱った出版物、及び読売行為への禁止令などを受けながら、かわら版は少しずつ取り扱う題材を広げていく。その中で辿り着いたのが、天災や火事などの速報だった。 かわら版屋は、町飛脚の問屋、いわゆる飛脚問屋に出入りしていたのだろう。単独ではなく、複数の問屋と懇意にしていたに違いない。 どこかで天災や火事が起きれば、日本を隈なく走り回っている町飛脚の誰かが、それを知ることになるだろう。また、大きな商家は、自分の住んでいる地域で異変が起これば、即座にそのことを、飛脚を用いて各地の得意先に伝えていた。だから、町飛脚以上に、天災や火事の情報を握っている人々は、当時いなかったのである。 町飛脚のホームである飛脚問屋には、そのような情報が集積されることとなる。だからそこで、かわら版屋は待ち構え、情報を入手したのである。もちろん、その情報の価値に見合った対価も、しっかり払ったことだろう。 次のかわら版は、1855(安政2)年に発生した、マグニチュード7の首都直下型巨大地震、いわゆる「安政江戸地震」に関するかわら版である。多くの情報を収集し、整理する能力を持っていなければ、決して作ることのできない代物だ。