速いだけの運び屋ではない かわら版屋のジャーナリスト魂に火をつけた飛脚
サイズは、縦が約34センチメートル、横が約51センチメートル。かわら版という言葉からは、簡素な刷り物が連想されがちだが、この一枚はそのイメージを完全に払拭するものだろう。そう、かわら版は、このように長大な記事を備えたものも少なくなかった。 このかわら版に書き込まれている情報のほとんどは、各地の詳しい被害状況である。決して、一人や二人の人間が、現地で取材をして集められる情報量ではない。間違いなく、多くの町飛脚が持ち帰った情報を、利用して作成されたものである。 それにしても、まるで活字で作られた新聞のように、小さくて丁寧な字がびっしりと並んだ一枚だ。これを眺めていると、ただ「お金を儲けるため」だけに作られたものではないようにも思えてくる。彼らは一体何を思って、これほど丁寧な刷り物を作っていたのだろうか。
かわら版屋に芽生えるジャーナリズム精神を支えたのは?
かわら版屋の思いを知るために、もう一枚のかわら版、「ゆるがぬ御代要之石寿栄(みよかなめのいしずえ)」を見てほしい。これも、先のものと同じく、安政江戸地震の被害状況を速報するものである。
先のものより更に大きく、縦が約30センチメートル、横が約90センチメートルもある一枚である。三色刷りにも目が奪われるが、それ以上に、文字量によって受けるインパクトが大きいはずだ。記事の前文には、このような言葉が並ぶ。 遠国他国より 江戸へ縁付又は奉公に出たる人々 はやく国元の親たちに我身の無事をしらせて 安心さすべし 結婚や仕事で、地方から江戸に出てきている人々は、一刻も早く「自分は大丈夫だった」と知らせて、ご両親を安心させてあげなさい――簡単に現代語訳すると、このような感じになる。怪しげな読売が取り扱う商品に書かれているとは思えない、真面目で気遣い溢れる文章である。 町飛脚という確実な情報提供源を得て、日々かわら版を売っていた読売たちも、色々考えるところがあったのだろう。情報収集力とその速報力は、ほかのどのような職業、いや幕府よりも、彼らの方が上だった。だから、思ったのだろう。「巨大地震で大変な状態に陥った今こそ、冷静に状況を伝え広め、無用な混乱が発生しないようにするべきではないのか」、と。 このかわら版は、とにかく「人々を安心させよう、落ち着かせよう」という良心に溢れている。記事の最後は、こう締めくくられているのである。 翌三日朝巳の刻頃 悉く静りけるが 地震ハ少々宛折々動やまづれバ 人々往還に出て是を避るに 漸く穏に成けれバ 諸人全く安堵の思ひなし 御代万歳とぞ祝しける しばらく余震が続いたが、ようやくそれも止み、人々は安心して、「さすが徳川の治世、万歳!」と喜んでいる。これは、そういった意味の言葉である。なお、徳川幕府を礼賛している理由については、また詳しく触れたい。 おそらく、かわら版屋たちは、非常事態において自分たちの「社会的使命」のようなものを自覚したのだろう。もちろん、これは全てのかわら版屋に言えることではない。しかし、彼らのごく一部であっても、「正しい情報を速報することで、世の役に立ちたい」と考えるような、「ジャーナリスト型のかわら版屋」が出てきたという事実は、余りにも重要である。 ところで、私は今回の記事で、「かわら版屋」と「読売(かわら版の売子)」という言葉を併用した。これを、不可解に思った向きもあるはずである。果たして、かわら版の売子は、かわら版の制作者とは違うのだろうか。このことを含め、次回は「かわら版がどのようにして制作されていたか」について、考えてみたい。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)