四角い箱で味わうハレの気分、無意識の祝祭 京都市・お辨當箱博物館 <門井慶喜の史々周国>
経済性や携帯性を考えれば、わざわざ木工品をあつらえる必要はないのである(だから厳密にはお弁当「箱」ではない)。これに対してハレ系は、はっきりと金持ちの遊興用だった。花見や野遊山のもの。もとより経済性は気にしなくてもよく、主人みずから持ち運ばないので携帯性への配慮も不要、ぞんぶんに見た目の美しさを追求することができる。
すなわちこの博物館のガラスケースに収められたのは、こうしたハレ系、祝祭系のものばかりなわけだが、しかしここでの見た目の美しさとは、黒うるし塗りとか、金箔貼りとかの装飾だけを言うのではない。私に言わせれば、それ自体が堅固な「箱」であることが、言いかえるなら竹皮づつみのような不定形でないことが、すでにして芸術の始まりなのである。
なぜなら「箱」は、理念的には、外部との境界を明示する。ということは、ハレの場においては、その内部にあるものが日常性とは厳密に区別された一種の「作品」だと主張することにもなるわけで、このへんは西洋絵画の額縁とか、映画のスクリーンとかを思い出すとわかりやすい(本の装丁もおなじかもしれない)。そういえばあの額縁というやつも、単に外部の衝撃から絵を守るだけなら丸形でもいい理屈だが、実際はやはり四角形が圧倒的に多い。四角形というのは最も空間効率がよく、強い人工性が感じられるので、それで境界の存在を印象づけるには打って付けなのだろう。
おかげで現代のお弁当箱も、ちょっぴりハレのしっぽが残っているようである。私たちは駅弁でも、幕の内でも、ホームセンターで買ったプラスチック製でも、およそ四角の箱でものを食べるかぎり、その時間だけは、知らず知らず、大名や豪商の気分になれるのだ。
無意識の祝祭、歴史の魔法。そんな大げさなことを考えるあいだ、結局のところ、ほかのお客は二、三組しか来なかった。いろんな意味で贅沢が味わえる、個人的にはあまり有名になってほしくない場所。