“失恋ソングの女王”が40代で挑んだ国家資格 救急救命士として「啓発活動を行っていきたい」
柴田淳、4年ぶりのフルアルバム『901号室のおばけ』で新境地
「失恋ソングの女王」の異名を持つ、“しばじゅん”ことシンガー・ソングライターの柴田淳が、11月20日に通算14枚目となるフルアルバム『901号室のおばけ』をリリースした。4年ぶりの新作となったが、実はその間、コロナ禍などもあり曲作りの苦悩を味わっていたという。そんな中、10代の頃から憧れていた救急救命士の資格習得がキャリア最大のチャンスを生むことに。新作では、これまでのセルフプロデユースから一転、音楽プロデューサーに武部聡志氏を迎え、柴田自身「人生観が変わった」という、さまざまな経験が楽曲に深みや彩りを与えている。ENCOUNTでは、大きな飛躍を遂げた柴田のターニングポイントに迫った。(取材・文=福嶋剛) 【動画】「歌姫がこのようなお姿で」 柴田淳が救急救命士を目指して学んでいるユニホーム姿 ――前作『蓮の花がひらく時』(2020年)から4年ぶりの作品となります。 「この4年間はブランクというより、ちょっとした小休止に近いかもしれません」 ――2001年のデビューからコンスタントに作品を作り続けてきた柴田さんが、4年という小休止をとった理由とは。 「実は数年前から曲作りに行き詰まりを感じてつらい時期を過ごしていました。曲のアイデアの引き出しがなくなり、制作スタッフとも上手く連携が取れなくなり、どうしたらいいのか迷子になってしまったんです。それもあって過去2、3作は、アルバムを完成させるたびに泣いていました。そんな中で作った前作の『蓮の花がひらく時』は、渇いた雑巾を絞りに絞って、これ以上一滴も出ないのに、それでも何とか一滴を絞り出して仕上げたアルバムだったので、終わった後に完全に干からびてしまったんです」 ――それで小休止を決めたと。 「必然的に小休止になった感じですね。コロナ禍でライブもできなくなり、音楽活動自体が止まってしまったので、私にとってはタイミングよく自分を見つめ直す休息期間になりました」 ――救急救命士の資格を目指そうと思ったきっかけは。 「好きな音楽を続けていくためにも心の解放が必要でした。音楽以外の興味あることも好きなだけ探求してみる、そんな感じに。年齢的にも何か無性に学びたい衝動があって、『そういえば音楽を目指すと決めた時に諦めた救命救急士という夢があったな』と思い出したんです。調べてみると看護師や救急隊としてのキャリアがないと受けられなかった資格が、何のキャリアがなくても取得できるように変わっていて、さらにちょうど専門学校の入学シーズンだったので『これだ!』と思ったんですよね。1週間後には受験し、2週間後には入学手続きを済ましていました」 ――専門学校に入ってみていかがでしたか。 「1年で自信が砕かれました(笑)。勉強も日々の生活も想像以上に厳しい世界で『辞めたい』って思うことばかりでした。ただ、学費が医療系なので猛烈に高い。先生は『現実的な面でももったいない』と言ってきて、社会に出て働いているからこそ、その金額の重さを痛感し、なんとか3年間先生に説得されながら頑張りました」 ――どんな3年間でしたか。 「デビューしてからずっとオンとオフのない生活だったので、生まれて初めて規則正しい3年間を過ごしました。専門学校に通う女子は私を入れてたったの3人で、ほかは、ほぼ10代の男子生徒さんたちでした。平日は朝6時半に起きて、自分のお弁当を作って登校するのが日課です。隔週くらいのペースで難しいテストが待っているので、分厚い教科書を広げて顔面蒼白になりながら毎日勉強漬けでした。一応消防から生まれた資格なので、体育の授業も消防隊のように『右向け右!』をやりましたよ(笑)。だから毎日家に帰るとベッドに倒れ込むように寝ていました。やっぱり10代の中にいる当時44歳の私は、ジェネレーションギャップを結構感じましたね。ある日、クラスの男子生徒に『好きなCDをプレゼントしようか』と言ったら、『CDプレーヤーがないので要らないです』と返答されて(笑)。今はYouTubeやインスタグラムやTikTokで聴くだけで十分みたいですね」 ――3年間の学校生活は柴田さんにどんな影響を与えましたか。 「私の人生観が大きく変わりました。10代の時に憧れていた夢をこの年齢になってから追いかけるなんてなかなかできることではないので、とても恵まれていると思っています。私はデビューしてからずっとセルフプロデュースで活動してきているので、全部自分で決めて自分が責任を負わなければいけない立場でしたので、3年間生徒として “受け身”になる立場で過ごした日々は、とても新鮮でした」 ――大きなターニングポイントとなったわけですね。 「別次元の世界を味わったことで、人生のリフレッシュができました」