数年の猶予が得られても、妊娠の期限は確実に迫る──1回あたり最大100万円が目安、サービス提供側の思い #卵子凍結のゆくえ
不妊治療の現場で感じた矛盾
大学院で生殖工学の基礎研究に従事していた香川さんは、その後、ヒトの生殖補助医療(ART)の業界に入った。そこで、妊娠・出産の当事者である人々の多くが、生殖についての基本的な知識をもっていないことに衝撃を受けた。 「生殖工学の研究をしていた私にとっては、動物が年を取り、一定の年齢になったら子どもを産めなくなるのは自然で当たり前のことでした。しかし、不妊に悩む方々に接するうちに、それがあまり理解されていないことがわかってきました」 不妊治療の研究はやりがいがあったが、矛盾も感じた。体外受精を行う女性の平均年齢は39歳だが、その年齢で出産できる確率は約10%だ。さらに、高齢出産は妊娠中に合併症が起きる確率も高く、母体に危険が伴う。 「最先端の技術を開発して高齢出産の確率を上げたとしても、その技術を望む人たちが40代や50代の年齢だったとしたら、救える人数はごくわずかになります。確率の低い不妊治療に挑む人たちの中には、若いときに正しい知識を知っていれば違う道を選べた人や、高齢出産の困難さを知ってはいても、仕事の関係でどうすることもできなかった人もいます。卵子凍結保存バンクを運営することは、正しい知識の啓発につながり、女性が産みたい人数の子どもを安心して安全に産むための選択肢の一つになるのではないかと考えています」
香川さんが卵子の凍結保存に携わるようになったのは、がん患者の妊孕性を保存するプロジェクトに参加したことがきっかけだ。今でこそがん治療時の妊孕性を考慮することは一般的だが、香川さんたちがプロジェクトを始めた2005年はそうではなかった。採卵のためにがん患者に針を刺して手術をする危険性や、治療のスケジュールの関係で、実現できないこともあった。だが、どうしても子どもを産む可能性を残したいという患者の願いは切実なものだった。 「子どもがいる人生を普通に思い描いていた人が、がんになって、しかもまだ結婚もしていないのに治療によって不妊になるというのは、とても残酷なことです。人によっては将来の希望が奪われて絶望してしまいます。『もう子どもを産めないのならがんの治療をしても仕方がない、死にたい』と言われる患者さんもいました」 活動を続けていくうちに、香川さんのもとに、医学的適応の対象ではないけれども、卵子凍結保存を行いたいという女性の声が多数届くようになった。社会的ニーズの高まりを受け、2013年に日本生殖医学会が社会的適応の未受精卵の凍結保存のガイドラインを示したのを機に、香川さんはプリンセスバンクの設立に動いた。 香川さん自身も社会的適応による卵子凍結を行った。自身のキャリアを考えてのことだが、ほかにも理由があったという。 「医学的適応の卵子凍結を試みる患者さんの中には、いろいろな事情で採卵できなかった方もいました。そのときに『とにかく治療して生きてください、卵子は私のものがたくさんあるから、あげますよ』と言える立場になりたいという気持ちがありました。31、33、34歳のときに採卵を行い、約40個の卵子を凍結保存しました」 その後、香川さんは自然妊娠により子どもを授かったため凍結した未受精卵は使わなかった。凍結卵子のいくつかは、治療によって成熟卵を作る機能を失った患者に提供された。