スーチー氏顧問の命を救ったミャンマー元警察官が語る民主化への思い。クーデターに抵抗し、日本で難民認定
私は1991年にミャンマー南部のエーヤワディ管区の小都市で生まれました。私の父母は小さな雑貨店を営んでいて、姉と2人の弟がいました。高校卒業前の最後の試験を受け、その結果を待っているとき、滞在先の友人が住んでいた村でサイクロン・ナルギスの直撃を受けました。 サイクロン・ナルギスではミャンマー全土で約10万人が死亡し、私は木に抱きついて一命を取り留めました。家族は幸い、無事でしたが、多くの友人が亡くなりました。
そのとき、ミャンマーを支配していた軍事政権は避難指示を出さず、被災者に十分な支援の手もさしのべませんでした。その頃から軍が支配するミャンマーのあり方に強い疑問を抱くようになりました。高校時代、アウンサンスーチー氏の父親でビルマ建国の父と言われるアウンサン将軍の伝記を隠れて読み、感銘を受けました。 ■内部から警察の体質を変えたかった ――なぜ警察官になったのですか。 本当は大学に行きたかったのですが、警察訓練学校のリクルーターが私の高校に来て、訓練学校に入るように持ち掛けました。訓練学校でも大学のための勉強はできるのでそのほうがいいというリクルーターの説得を私は受け入れました。今考えると、その説明は正しいものではありませんでした。
警察では上官が恐怖によって部下を支配し、暴力など人権侵害もたびたび目にしました。ミャンマーでは警察のイメージは非常に悪く、無実の人をつかまえて拷問することもしばしばありました。 私は警察に入った以上、その体質を変えるために力を注ぎたいと思うようになりました。タイミングよく、タイの警察士官学校に留学する機会を得られ、そこで市民社会にとってふさわしい警察官であるための心構えを勉強しました。 ――タイでの留学の後は?
2016年4月には、ミャンマー政府の人身売買対策局に配属されました。当時は、アウンサンスーチー氏が率いる民主派政権が発足した直後でした。ただし、警察は依然として軍が掌握していて、改革は進みませんでした。 その後の2018~2019年にかけてオーストラリアに留学し、国際関係学の修士号を取得しました。そこでの学びから、ミャンマーでは多民族による連邦民主制がふさわしいと考えるようになりました。 外国に留学し、民主主義の重要性を学んだ私に対して、上司は不満とともに脅威を感じるようになり、昇進を阻止しようとしました。