野村萬斎「十代の頃、父・万作の『三番叟』の舞をカッコいいと思った。ロックへの思いと同じく、自分の中の躍動感が狂言とも呼応すると気付いて」
◆三谷さんの芝居はカルチャーショック 第2の転機は萬斎さん27歳(94年)の時、文化庁芸術家在外研修制度でロンドンに留学して主に演出法を学んだこと、かと。 ――ええ、あの頃からワークショップということが盛んになってきて、テアトル・ド・コンプリシテ(共犯者)という劇団のサイモン・マクバーニーのワークショップにはずいぶん影響を受けました。ここには狂言に近い身体的要素もありましたからね。 一方、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのオブザーバーとして稽古場をよく見に行ったりもしましたけど、こちらはシェイクスピアの王道で、〈喋る演劇〉として典型的なイギリス演劇を学びました。 ワークショップでは海外の方に英語で狂言を教える経験も。狂言の演技術や演出法を分析して、これをどうほかに生かせるかを考えたことが、その後に繋がっていきます。 そして帰国後に作ったのが『まちがいの喜劇』を翻案した『まちがいの狂言』になるんですが、それをロンドンのグローブ座で2001年に上演。02年に凱旋公演をし、その結果、世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任という流れになったわけですので、留学は転機でしたね。
留学の成果の一部は、三谷幸喜作・演出『ベッジ・パードン』(11年)に出演した折にも表れている。 萬斎さんが「ロンドンの下宿先の部屋の絨毯が張り替えられたばかりで、とても土足で出入りする気にならなかった」と三谷氏に話したところ、早速それがロンドン留学中の夏目漱石(萬斎さんの役)が、お客に靴を脱ぐように求める設定として活かされていた。 ――三谷さんの芝居に出るってことが、僕にとっては一種、転機に近い、カルチャーショックでしたね。それまで現代劇といってもシェイクスピアくらい。蜷川さんの『オイディプス王』というギリシャ劇にしても、どちらかと言えば時代劇なんですよね。まして木下順二作『子午線の祀り』の平知盛役となれば、アドバンテージはこちらにありますよね。 ところが三谷さんの『ベッジ・パードン』となると、共演者が大泉洋君だったり、ミュージカルのトップスター浦井健治君だったり、浅野和之さんに至っては11役もつとめて――これ、漱石がロンドンで出会った人々がみんな同じ顔に見えた、っていう設定なんですね。それにベッジという漱石の下宿先のお手伝いさんが深津絵里さん。 こういう方たちは三谷さんが割合よく起用する、言わば彼にとっての〈お気に入りのおもちゃ〉(笑)。僕は三谷さんの芝居は初めてだったので、彼も「これはどう使えばいいおもちゃなのかな」と考えたのでしょう。 公演が終わる頃、「萬斎さんに絶対やってもらいたい役がある」と言われた。それがテレビドラマ「勝呂武尊(すぐろたける)」シリーズ、アガサ・クリスティー作品を原作とした三谷版のポアロ役なんです。 探偵役は非常に個性的な、絶対的存在感が必要という信念が三谷さんにはあり、たとえば『古畑任三郎』の田村正和さんみたいに、ほかとは交わらない強烈な個性がないと成立しない。 「だから萬斎にポアロを」となるんですが、原作のポアロはベルギー人という設定で、これはヨーロッパ社会では少々浮いた存在なんですね。それを出すためにちょっとしゃくれた喋り方をして、びっくりされたようですけど、おかげさまでシリーズ三弾まで行きました。 (撮影=岡本隆史)
野村萬斎,関容子
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