野村萬斎「十代の頃、父・万作の『三番叟』の舞をカッコいいと思った。ロックへの思いと同じく、自分の中の躍動感が狂言とも呼応すると気付いて」
萬斎さんが『三番叟』を披いた(初演)のは17歳(84年)の時。これが第1の転機だろうか。 ――そうですね。あれは千駄ヶ谷の国立能楽堂がオープンして間もなくでね、舞台の木が乾燥しきってないので硬くて、踏んでもあまり足拍子の音がしないんですよ。響きが悪いとどうしても返りの音を求めて強く踏みますから、終わったら足の裏がアザだらけになっていました。 『三番叟』は僕にとっても父にとってもライフワークでして。上演回数がとても多く、歌舞伎や文楽など他分野との共演を何度もしています。 先日は金沢で息子の裕基が中村鷹之資(たかのすけ)君(人間国宝・五世中村富十郎さんの長男)と、24歳同士のフレッシュな『三番叟』を、能登半島地震からの再生の祈りをこめて舞ったのが好評でした。 そういう20代の『三番叟』と、50代の僕が今やるものは違いますし、父は90代。父の域になると解脱するというのか、すべてを超越した精神性がマジカルに見える境地に到達するみたいですね。そこが芸道の面白いところですよね。 いつ頃だったか、父が、来日した舞踊家のショナ・ミルクの踊る『ボレロ』を観てきて、「これは『三番叟』に似てる」と言ったんです。『三番叟』は死からの再生、冬が終わって芽が出て花が咲き実が生って、つまり五穀豊穣を祈るという概念。 そこで狂言師の考える『ボレロ』として、仮死状態の者が冬の眠りから覚めて、春を迎え夏を過ぎ、秋には実ってまた違うステージに飛んで行く、死ぬというよりは転生する、という概念にして考えました。 具体的には2011年、当時僕は世田谷パブリックシアターの芸術監督で「MANSAI◎解体新書」というシリーズをやっていて、ゲストの首藤康之さんと「『三番叟』と『ボレロ』が似ている」という話をしたんです。その時、首藤さんが「なんちゃって三番叟」を、僕が「なんちゃってボレロ」を即興で踊ったりしたのです。
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